思考力

簡単な公式から難解な答えを得る

いやはや、とても気分が良い。爽快である。現在、午後4時。夕方にコーヒーを飲みながらブログを書いているという、「朝活」とは完全に逆行した時間帯だというのに、ブログを書きたくてウズウズしている。まぁ、もったいぶらずに書けば、今日は「大漁」だったのだ。前回、撃沈した千葉市方面の釣り場へ向かったのだが、丸々と太った、30センチ級の「コノシロ」という魚が、7匹釣れた。私は、横浜と大阪湾で名物の「ヘチ釣り」という、一本の竿に、太鼓リールを付け、ゆっくりと糸を垂らして大物を釣るスタイルが大好きだったのだが、千葉外房では、その釣り方自体が不可能に近く、やっと魚らしい魚と闘ったのが、千葉へ移住して三年以上すぎた「今日」だったのだ。

最初は、何とか桟橋の足下へ仕掛けを投げて落とし込んでいたが、もう諦めた。前回の二の舞は、懲り懲りだった。たまたまリュックサックに入れていた「さびきの仕掛け」と、お守り代わりの「チューブ式コマセ」があったので、老夫婦と人の良さそうな人の間に席を取らせてもらい、さびきの仕掛けを垂らした。そもそも、「サビキ」を子供の娯楽だとバカにしていたし、どこの店で買ったのかも思い出せないような、値段のシールも剥がれている仕掛けなのだから、期待せず穂先を眺めていた。

「ヘチ釣り」は、「静」から「動」へ一気に変化する釣りなので、ガチで落とし込んでいる人には、話しかけられないほどのオーラがある。他方、「さびき釣り」は、平和だ。ユラユラ動く穂先に一部の望みをかけつつも、のんびりと海を眺めているだけでいい。両隣が、友好的な人だったので、その場所での「トリック仕掛け」などを訊いて、適当に落としていた。隣の老夫婦の腕前は確かで、今回のキーワードとなる「コノシロ」を、順調に釣り上げている。隣の年齢不詳の男性は、さっぱり釣れていない。このご時世で、お互いマスクをしていると、年齢がわからないし、どんな性格の人なのかも分からないので、終始、敬語で話をしていた。

すると、本来、サビキをするための竿ではない私の竿が、グイグイと引っ張られていた。強いヒキに、久しぶりのアドレナリンが出る。引き上げれば、海面で「コノシロ」が暴れているではないか。見事に「ボウズ回避」だ。二投目も、すかさず竿がしなったが、唇が弱い魚なので、強く引きすぎて針から外れてしまった。こうなったら、エンジン全開だ。老夫婦に仕掛けの詳細を訊いて、自分もリュックにある仕掛けを巧みに切り替えれば、面白いように「コノシロ」がヒットする。隣の男性は、あっけらかん。「ヘチ釣りは足で釣る」という名言がある通り、ヘチ釣りというのは、釣り場が混んでいても、竿と竿の間に、自分の竿を出すこともあり、揉め事になることもあるが、サビキに「それ」はない。隣の男性にも一匹上がったあたりでは、久しぶりに人間とはしゃぎあった気がして、大声で笑った。

釣りにしても、サーフィンにしても、「海」というフィールドでは、必ず、厳しいルールと掟があり、それを無視することは、「自由」ではなく「自分勝手」な行為なので、厳禁。ただ、同じ海をシェアし、心の底からハッピーになれる時間を過ごせるのは、同じ「海」という限りなく広いフィールドで、時間を共にできる「同志」だから可能なのだ。私は、自分の限界を高め、もっともっと大きな波を乗りこなすために、絶えずスケボーを改造して練習を欠かさず、幾度となくテストを繰り返し、何度も大怪我をしている。若い頃からの膝の酷使で、毎月、ヒアルロン酸の注射を打っている。主治医いわく、この毎月の注射に「卒業」は、ないようだ。それでも、私は、大きな波を克服し、自分の可能性を高めていきたいと思っている。釣りだってそうだ。陸っぱりの釣りだけではなく、船に乗って島に行って、もっと大きな魚と格闘したい。

ただ、今日、強く感じたことは、腹の底から笑い、夢中になって穂先を見ていたときに、素晴らしい時間を過ごせたという充実感こそが、本来求めるべき対象なのではないかということだった。毎朝、ブログを書き綴っているときに、何か自分の中で「背伸び」をしていたような気がしていた。その反面、絶対に「雑記ブログ」のような私的な内容の文章を書くことは、禁じていた。毎朝、コーヒーを飲みながら、作業用BGMを聴き、神経を張り巡らせて書く文章に行き詰まっていたのかもしれない。もちろん、文章を書くというのは、重い責任が伴うのだということは、痛いほど経験しているし、自分の師から、強く言い諭されていたことでもある。

ただ、このような日々の喜びの中から溢れてくる「法悦感」を表現することに「リミット」をかける必要もないと思った。もちろん、好きなことを、好きなだけ書いて、適当な結論を書いて終わりにするだけではない。なぜ、無意識のうちに自分を追い込むような「ルーティン」をつくってしまっていて、どうして無意識のうちに、自分を苦しめるようなブログを書いてしまっていたのか。そして、そんなことを気づかせてくれたのが、ささやかな喜びの中にこそ、ヒントがあったということ。これを書き記すことには、とても大きな意味があるのではないだろうか。

今、数学の「解の公式」を暗唱することはできるが、既に、それを使うことはできない。ただ、毎回毎回、予備校に通っていたときに受けていた数学の授業の鮮やかな教え方を鮮明に思い出すことができる。そして、今、その講師のYouTube動画をみると、呼吸の入れ方や、視点の置き方、チョークの持ち方など、教壇に立っているときに、いかに見えないところに気を遣っているのかが視える。一見すると、簡単そうにやっていることが、実は非常に難しいことであり、難しいことを美しくしなやかに行っているのが、プロなのだと思う。

人を感動させるためには、「プロセス」が必要だ。たとえ、全く同じ言葉を、全く違う人間が言ったとしたら、全く違うニュアンスになるに違いない。もちろん、その人との関係性などもあるが、仮に、初対面の人の専門的な解説であったとしたら、その人の呼吸の置き方や、間の取り方、視線や声のトーン、表情に至るまで、全てが異なって伝わる。これは、それまで築き上げ、それまで固めてきた経験という基盤の固さが「差異」を生むからであろう。「これをすれば必ず〜」「この理由は絶対〜」「究極の〜」。このような宣伝文句が、本当なのか否かは、それを謳っている人の経験と力によるものが多分にある。そして、そのやり取りの中で、真の「信頼関係」が気づけているのであれば、仮に、大きく間違っていたとしても、それを十分に許容できるだけの心の器ができているはず。だから、特に、「師弟関係」における「信頼関係」というのは、限りなく強ければ強いほど、大きな実績を生み出すことができるのだ。

喜びを思い出させてくれた、7匹の「コノシロ」を捌きながら聴いていたYouTube動画では、認知症予防に最適なのは「魚」だと言われていた。また、近年の研究で、「魚」に含まれる成分の有効性が、次々と発表されている。明日、夜明け前に目が醒めたら、また釣りに行ってしまいそうだ。それより前に、鱗だらけの台所の掃除と、大量のスケボーと釣具の収納をせねばなるまい。

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