思考力

流れ作業に乗ること・自分の仕事に乗せること

 

やはり、熱中できることがあるのは幸せだ。その時限りであっても、余計なことを考えずに済む。YouTubeの音声アップロードは、このサイトのブログの読み上げに、そのときの自分なりの思いや考えを付け加えて話をしているだけで、やはり、私の拙い思考や、プライベートでの出来事などに興味を示してくれる人などいないことが、視聴回数から明らか。視聴回数1回、高評価1の犯人は、いうまでもなく私であり、誰からも相手にされてないということでは、低評価がつくよりもツライといえる。

母が亡くなり、自分の中で大きな崩壊が起こると思っていたが、想像するよりも大きくへたれこむこともなく過ごせている。もちろん、悲しみに打ちひしがれて、その波にさらわれないように、眠れるだけ眠り、時間が過ぎるのを「時間稼ぎ」するという、なんとも逆説的なことをしてスルーしているのだが。もし、会社員であれば、仕事中に号泣して仕事どころではなかっただろうし、同僚や上司、果ては自分の教え子に同情の声でもかけられようものなら、その日は、泣きながら「早退」させてもらっていたはずだ。

もちろん、母が亡くなってから今日まで泣かなかった日などない。目が覚めて線香を灯し、寝る前にも線香を灯し、手を合わせる遺影を支えている遺骨の箱の中には、亡き母の骨がある。だから、その映像が網膜に映し出されれば、当然のこと涙は流れる。この家から遺骨がなくなるまでは、いや、それから先もずっと、ことあるごとに母を思い出して涙腺が緩むことだろう。遺体が火葬された時、出てきた母の足の部分には、骨が遺っておらず、寝たきりになって骨が弱りきっていたことが目視できた。棺桶に眠っていた母の遺体と、骨となってしまった母の姿では、やはり前者の方が辛く、後者を目にしたときは、何やら母とは分離された「別の物体」が目の前に存在しているだけのような気がした。

YouTubeで、どんなに有益な情報を得たところで、今の悲しみが癒えるわけでもないし、坊さんの有難い説法を拝聴したところで、どこかで上の空になっていることに気づく。眠りながら聴いているのは、いつの間にか自分のブログの音声の読み上げ動画になっていて、その話が退屈なのだか何だか分からぬが、起きてみれば、iPadの画面は、その動画の再生が終わっている状態。自分を癒すのは、自分だけなのだろうか。しばらくは、外部からの情報を一切遮断して、自分の声と自分の今の気持ちを対比して考えることだけに集中してみようかとも思う。でも、すぐに飽きて、YouTubeの面白そうな動画を探していそうだ。

とにかく意義のあることをしたいと思っていたのだろうか。昨日は、久しぶりに、本格的な「英語解説動画」を録画し、編集してYouTubeにアップロードした。サムネイルを作りながら、自分の肌が荒れていて、口元に隠し切れないほど大きなニキビがあった。香典袋の後ろに備えてある果物だけを食べるだけにしようとしたが、やはり食欲を満たして精神の安定を図るしかないようで、コンビニの弁当の空き箱や、コテコテのスナック菓子の袋だけが、部屋の床に横たわっている。そんな乱れた食生活ならば、思春期でなくとも「吹き出物」の一つや二つ出て当然だ。

そんなわけで、自分の本能が、知らぬ間に自分の没頭できる「英語指導」の導線に再着火しようとしていたようだ。今、なんのことはないのだけれど、iPhoneを見れば、家庭教師センターからの着信履歴が残っていた。電話を折り返すと、仕事の依頼。こうしているうちにも、さらに一本の電話。正直なところ、どんな会社であれ、売り上げというものやノルマがあるわけで、安く講師を使って、多くの授業を捌くことができればいい。つまり、授業の質というよりも、いかに顧客リストを作成し、講師のスキルをそのまま監視し、同じ給料で、もっと多くの生徒の案件を増やしていけるかだけを考えている。

そこに、あまり創造性や血の通った教育は、見出せない。だから、自分のオンライン予備校を設立したのだが、なんだかんだいっても、こちらもビジネスであり、必要最低限の収入がなければ生活できない。キレイ事の教育は、ボランティアの上にしか成り立たないのだろうか。今日、オンライン授業がある。その授業は、東京で「4年3ヶ月」勤め上げた塾の授業だ。仕事のない私を拾って、4年以上勤めさせてくれ、私が一方的に千葉へいくことを認めてくれた。やがて、千葉での仕事がなくな離、私がオンライン講師をさせてもらえないかという提案を快諾してくれた塾だ。

このような心から私を支えてくれるような塾で指導をできる。こう考えると、全てがグログロと金の匂いしかしない会社とも言えないようだ。今は、そんなあたたかい塾と、自分の思考力養成予備校の仕事に熱中することで、母へのレクイエムになるのだろうと思う。

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