思考力

連コマを紡ぐ

今日は、昼時に歯医者に行かねばならないので、少し早起きをしようとしたのだが、なかなかベッドから這い上がれず、なんとか昼前に起きられた状態。明日は、渋谷で精神科の診察があるのだが、午前10時の予約なので、この分だと絶望的な時間だと言える。精神薬や眠剤を服用していると、本当に生活のリズムを一定に保つことが難しい。このことを、根性論などで片付けられてしまい、わけのわからぬ基準で根性なしのレッテルを貼られるのは、とても不愉快なことだ。だが、世間というのは、なかなか偏見の目が治らない。もちろん、私が初めて深い鬱を経験した時にくればレバ、随分とマシにはなったとは言えるが。

最近は、瞑想を中心とした生活で、周囲で何か特別な出来事があったかと言われれば、特段変わったことがあったわけでもなく、取り立てて政治経済の話をしたところで、自分の知識の薄っぺらいところを活字にするくらいしかできないので、そんな”Chat GPT”でもできるような駄文を作りたいとも思ってはいない。Yahooニュースの見出しで、話のネタになるような記事を探そうとも、芸能人が結婚しただの不倫しただの、政治家が汚職しただの何なのカンナので、全く興味のない話が列挙されている。そんな実りのない話を断捨離することはとても重要とはいえ、全く世間に関心がないのもいかがなものかとも思っている。

梅雨明けはしたのだろうか。ここまで世間に関心がないと、こんな常識的なことにすら気づかなくなる。たまに、目が覚めた瞬間に今の季節が、式においてどこに当たるのかさえ分からなくなってしまうこともあるくらいだが、さすがに、最近の気温の高さだと、夏本番も近いような気がする。というか、事実その通りの暦。今年の夏は、どのように経過していくのだろうか。昨年のナマポ真っ盛りの地獄のような生活だけは避けなければならない。今のところ問題ないとはいえ、あの地獄の日々を忘れてはいけないという気持ちも同時に持ち合わせていなければんらないということも事実だ。

実態があり、そこには肉体と精神がある。それをフュージョンさせる行為が瞑想なのであれば、ずっと考え続けていた「内なる自分」の存在に気づけたりもするのかもしれない。そこまで到達するのは、年単位どころか、10年単位のところにあるのだと思うが、せめて、もう一人の自分が存在するという事実は信じていたいところだ。その自分を、意図的に動かすことができれば、実態としての自分のパフォーマンスが上がると考える。sそうなれば、瞑想の追い求める果ての「方向性」くらいは意識できるのかもしれない。とりあえず、今は「今」として連コマの写真をつなぎ合わせるような意識で瞑想に取り組む「だけ」で良いのだと思っている。

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