思考力

樹と樹と間の空間

 

昨日は、アパートのオーナーの企画で、私を含む4人で、千葉最北端の「銚子」までドライブに行った。旅にはアクシデントは付き物でなければならない。だから、ワインディングロードであればあるほど、そのあとの思い出は強く残る。ただ、終始穏やかな旅となったので、記憶にあるものがなかなか少なくなり、うっすらと流れるその空気そのものが思い出となったようだ。それはそれで悪くないのかもしれない。

これを、人生だと考えたとき、旅の道程が起伏に飛んだものになるのか、平穏無事になるのかを考えると、それは個人の判断によるものとしか言いようがない。人は、争いを起こさないように「カネ」という紙幣を使い、物をやり取りすることを学んだ。だから、「それ」を稼ぐために、いかに生きていくかということが、人生の大きな目的となる。ただ、お金を幸せに引き寄せる法則があるとすれば、ガムシャラに働くことではない。そればかりでは、人生が充実しないことだろう。

ときに、サウナで寛ぐことを学び、ときに、教養としての英単語を損得なしに勉強するのも悪くない。そのような回り道の体験から、記憶や思い出に強く残るような出来事を経験できるのだろうと思っている。一つ確実なことは、自分の人生をズタズタにするような考え方は、カネのことばかりに執着し、人生そのものが破壊されるようなカネの亡者になってしまうことであろう。無人島で大金持ちになっても意味はない。あくまでも、無人島でも穏やかに暮らせるような自然のサウンドを楽しめるくらいの穏やかさを手に入れたいものだ。

最近、無意識のうちにではあるが、自分の関心が、「ひろゆき氏」に傾いているようで、YouTubeの関連動画は、ズラリと彼のサムネイル で埋め尽くされている。無駄遣いを止めることや、政治家を位置ことで黙らせたこと、最近問題発言をしたインフルエンサーの凄さや、環境問題など、その話題は多岐にわたる。ここまで幅広くなおかつ深い話ができる彼のトーク力には、脱帽以外ない。やや、偏見に満ちた発言もなきにしもあらずだが、それらを「偏見」だと感じられるとき、私は、完全に彼の意見に従属しているわけではないと安心する場面でもある。「従属」は、悪である。

お金に従属し、無批判に誰かや何かを盲信することは、自分の人生そのものの設計が崩壊する危険性をはらんでいる。「我」が欠如した状態に直結することは、最近よく考える「主体性」という、自己の価値観を失うことになりかねない。そうなってくると、誰かの考えに頼らなければ生きられないニンゲンになり、その道に待ち構えている、明らかに超えられない壁を突破できないのは、自分の努力不足だと勘違いしてしまい、ますます誰かの助けを求めることになりかねない。そして、そこにはもう、自分の人生というものが、完全に欠如した状態しか残らなくなってしまうであろう。

心の底から誰かを信じるということ。こんなにピュアな気持ちはない。まるで、愛犬が、何の損得もない無性の愛を自分に与えてくれているかのような気持ちのやりとり。ただ、そこに「自分」というものが欠如してしまえば、たとえ相手も自分のピュアな心を提供してくれていたとしても、共に依存し合うだけの「馴れ合い」で終わってしまう。それはまるで、樹と樹が触れ合った途端に、腐ってしまうかのような関係になる恐ろしい状態だ。ともに、美しく生きるためには、根は同じでも、独立した「個」であることを認識しておくこと。それこそが、より良い自分を形成していくのだと信じている。

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