思考力

Easy or Kind

 

しっかりとした自分の信念を持ち、それを貫き通せる人がいる。そのような人は、他人の顔色を伺うことなく、堂々と生きている。そのような人は、自分が自分でいるために、自分が主体的に決めた道を突き進んでいる。今まで生きてきた中で、私が尊敬し、多くの人が称賛するような結果を出した友人は、やはり確固たる自己をキープしている。自分の中で、決して譲れない領域に杭を打ち、自分の生き方を侵害されないような、心の中の「立入禁止区域」のようなものがあった。そして、そこを踏みにじられると、ものすごい勢いで反発する。高いプライドがあるのだ。だから、本来なら関わってはいけないような人が集ま流こともない。結果、周囲には信頼のおける人が増えていき、プラスのオーラにガッチリと包まれている。

そもそも、「劣等感」というのはどうして生じるのだろうか。亀の進むスピードと、私の指の体積を比較しても、「優越感」や「劣等感」など生じない。ジェラシーの類の感情というのは、固定された自分の物差しを勝手に作り上げ、他人と比べた結果出てきた負のカタマリだ。人は、誰しも進んでトラウマになるような過去を遺したいとは思っていない。逆境を乗り超え、やがて自分が強くなれるような困難を積極的に受け入れるならいいが、自分を追い込むような悩み方は、極力避けなければ、前へ進めない。

ある意味において「時間」というのは、自分の意思にかかわらず、自動的に流れていくものだ。いわば、淡々と回転寿司のベルトコンベアが動いているような状態。否応なしに、寿司が運ばれてくる。過去に、のたうちまわるほど苦しい食中毒を起こした寿司ネタが流れてきたとしても、自分の元へと勝手に流れ、目の前を通過していく。そのことに文句を言うことはできない。自分の意思で回転を止めることはできないのだ。ただ、腹が減って野垂れ死にそうだったり、今日だったら何とか上手く消化できるかもしれないという「前のめりな気持ち」が起こったのであれば、それを食べることになるだろう。過去は過去。今は、失敗したっていいと思える。

誰だって、現状をキープしていれば安全なのかもしれない。だから、変化することを恐れる方が多い。そして、その多くの原因は、過去のトラウマであることがほとんど。では、「トラウマ」というのは、そもそもどうして生じるのかといえば、結局のところ、自分が勝手に作り上げた境界線の範囲内で、自分のどこが優れていて何が足りないのかというのを、他人と比較して作り上げた幻想に過ぎないということもできよう。アドラー心理学で言えば『嫌われる勇気』の肝。「全ての悩みは対人関係にある」と言える。

人は、どのようなときに他者に優しくなれるのか。今までの人生を振り返れば、やはり自分に余裕があるとき。つまり、自分という存在を心の底から好きになっていなければ、相手にとっては「お節介」で終わってしまう。私は、かなりこれをやっていた。そのような上部だけの優しさに似た行動は、どこか不自然であり、そこを見抜いた者に多くの物を搾取された経験もある。ただ、そのような輩に憎しみを抱いたり、謝罪を求めたり、変化を促すようにさせることそのものが間違っている。あくまでも、自分が変化することしか状況を変えることはできないのだ。そのような理解ができたのであれば、関わってはいけない人物、身を置いてはいけない環境も明確になる。

本当に優しくなるためには、優れた人間でなければならない。自分の価値を高めたいのであれば、孤立すればいい。そうすれば、本音で付き合える人が現れてくるかもしれない。少なくとも、嘘つきや詐欺師が近寄ってくることもないのだから。他人は、自分の人生の審査員ではない。あくまでも自分の人生の充実度は、自分の価値基準だ。そもそも、誰かに褒められるために行動を起こすこと自体が、打算的で薄っぺらい「嘘」の行為。それはただの自慰行為であり、やはり相手から見たら「迷惑行為」。

「劣等感」。「トラウマ」。負の要素であれ、プラスと見ていたはずの要素であれ、その全ては自身の捉え方次第。そのことに気づけた瞬間、人はすぐに変わることができる。やり直すことだってできる。そんな人物が、多くの人を幸せにしていたような気がする。本当に相手のことを思いやり、優しい人間になるためには、真の「優しさ」と「易しさ」の区別をできるようになることだとおもう。

 

 

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