思考力

一滴を連ねる

前の記事に記してあるが、明日は、とても大切な取引があるので、その忙しさに忙殺されて、ブログを書き損ねてしまうこともある。そのような事態を避けるために、フライングブログというより、今日、もう一本記事をアップしておこうと思う。このブログ毎日更新だけは、誰に頼まれたわけでもないし、固定読者から催促されているわけでもない。ただただ、自分の中で、これだけは譲れないという気持ちが心中にあり、無理やり書いているわけではないのだけれど、一本の線を途切れさせたくないような必要性を感じているばかりなのだ。

先ほど、無理やり書いてはいないという表現を遣ったけれども、起床して歯磨きをしてコーヒーを淹れた後、記事を作成していくという流れは、自分の中での習慣として身体に染み付いたルーティンであり、苦痛を感じているわけではない。むしろ、書かなければ落ち着かないので書いている。そうやって日を重ね、今や悠に800記事以上のブログを作成できたのだ。もう二年以上、このサイクルを繰り返していれば、やはり自分の中で譲れないというより、書くという行為と生活が自然にセットになっている状態なのだ。

一滴の滴が、岩石を砕くには、気の遠くなるような歳月がかかる。もっと冷静に考えれば、岩に薄っすらとヘコミをつけることだって無理と言える。私の文章であっても同じ。心の中が岩石であったとしたら、その輪郭に少しの衝撃を与えることすらできないのだと思う。これは、持ち前のセンスとか才能に由来するものかも知れないし、もっと言えば、その心の岩の状態や種類が、オーナー次第で変化するものなのかも知れない。心の持ち主によっては、心に変化など必要ないと思っているのかも知れないし、良い悪いは別として、変化そのものを知らないというケースだってある。

ただ、音楽であれ、絵画であれ、執筆であれ、およそ芸術と呼ばれている範疇では、自分の心との葛藤を、いかに表現するかということが主軸となっているわけで、作品という結果は、誰かに視覚的、聴覚的に魅せようと意図して完成させるものでもない。そもそも、創り手は、完成というゴールそのものがないということがわかっているはずだ。表現された作品に対して、受け手が、模写だけを求めているのであれば、それは表面的な感動とも言えないパッケージの袋のツヤにしか反応していないのと同じで、描かれた作品の僅かなタッチの中に、その創り手の葛藤や悦びを感じられなければ、その受け手は、鑑賞者としては資格をもたない「お客様」でしかない。

私は、描けば描くほど理想とは程遠いと感じるどころか、理想がどこにあるのかも分からない状態に陥ることが多くなってきた。それは、このブログを書き始める前から、薄々とは理解していたのだが、やはり自分の心が求めているような理想というものは掴みどころがなく、そもそも理想というものは、単なる「幻想」に過ぎず、掴もうとするほど遠くなるのではなく、掴むという行為そのものが不可能なことなのだろうと思うようになった。この考え方に行き着いたことは、あながち間違ってはいないと思う。

書くことであれ、描くことであれ、目に見えぬ対象を表現しようとすることには、とんでもない苦痛が伴う。そして、こうやって毎日毎日、文章を書き綴ることで、その苦痛でさえも、感じられることそのものに悦びを得られるようになってきたのかも知れない。そして、最近になって実感していることは、自分の表現が、このサイトを始めた頃よりも明確に表現できるようになってきているということだ。もちろん、そのように具体的に何かを表現できるようになったと慢心することが、もはや退化していることなのかも知れない。そのことだけには気をつけ、このまま記事の作成に勤んでいこうと思う。

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