思考力

凧の滑走路

昨日、東京での大きな取引が終わり、十年以上ゴタゴタしていた難題が、ようやく解決した。まだ、細かな手続きが終わっていない部分もあるが、ほぼほぼ完了と言ったところだ。決済場所は、池袋だったのだが、高校生の時に片想いをしていた女の子の地元だったということもあり、なかなか思い出もひとしおかとも思っていた。しかしながら、街全体が様変わりしていたというよりも、時代のペースに合わせて、異質な場所へと変化してしまったような感覚であった。

当時は、連絡は固定電話。熱い想いは手紙。待ち合わせ場所に着いても、スマホなどないのだから、ソワソワする。こんな気持ちも、二十年経過すれば、全くもって変化するのも当然で、待ち合わせに焦燥感をいだくことそのものもにも、それほど苦を感じない時代になった。ラインでチャットをしていれば、それはもう見えないまでも、隣に相手がいるようなもので、最終手段として電話という武器を使えば、会えずに帰るという最悪の悲しい結末は待っていない。そう考えると、こんな時代だからこそ、時間にルーズだったり、約束を守れないような人間が目立つということでもあり、そんなヤツとは、容赦無く縁を切る以外ない。そういうシビアな気持ちを持っていなければ、時間という大切な資産を奪われてしまう。

ずっと解決を待ちわびていた問題であったとはいえ、解決してみれば、それほど気持ちの荷が下りたかといえばそうでもなく、今まで重荷を担いでいたところに、自分の新しい課題を背負うというときに、どんな新しい問題を背負うべきか考えている。長年抱えていたとはいえ、昨日の今日解決した問題だから、あまり実感が湧かないというのも確かなことなのかも知れない。やはり、今は落ち着いて自分の気持ちを冷静にし、しばらくは大きく動くようなことはしない。問題が解決した時こそ、両手放しで浮かれていてはダメなのだ。

どんな問題が解決したのかとか、今何をどうすべきだとか、思うように睡眠が取れないだとか、このような現実的な出来事に対する自分の考えを具体的に書いたり、葛藤や苦しみなどの抽象的な対象に、今自分が感じていることを表現するなどの文章を書けない。こうやって、アイディアが浮かばない状態で記事を書いていても、意識の中にある部分から表現が噴射するような気持ちが生じず、何ら興奮しない。そもそも、二十年前の私の片思いの話やら、その場所がどうなったなど、書いていて面白くもなんともないのだから、読んでいる方に対しても申し訳ないと思ってしまう。

やはり、人間というのは、寝て起きて仕事をするというだけでは飽きがくる生き物であり、そんな乾燥した生活の中にでさえ、気持ちの波が生じる不器用な生き物だ。ただ、その不器用ながら繊細な心を、丁寧にかつ上手く手懐けられれば、とんでもない成果を生み出すことができる。それは、自分たちが生活するインフラが、どれだけ快適に発達したのかを見れば明白だ。街が様変わりしている。待ち合わせの時間に苦痛を感じなくなる。相手が何をしているのかが手にとるように分かる。やはり、これらは、自分たちの不便とする側面を見つけ、その部分をどのように改善していくかを考えながら出した結果、生まれてきた成果でもある。

一定の期間、酷く悩ましい問題が解決した途端、それこそ無重力で糸の切れた凧のように浮遊していれば、何も考えずに済むというより、何も考えなくなってしまう。なぜなら、どんなに足掻こうが、中に浮いて仕舞えば、人間は風任せにしか動きを取れなくなってしまうのだから。逆に考えれば、余裕ができた時が到来したのであれば、今までとれなかった大胆な動きを積極的に行い、自分が進んでいく道のりのインフラを整えていくべきだ。そして、今、まさに、私はその時を迎えているのだと考えよう。

-思考力