思考力

身を守りたいのであれば

豪速球が飛んできた。自分の顔面に迫って来る。これを反射的に交すのが「本能」。どんな生物であれ、避けなければ大怪我をすることを身体が察知すれば、瞬時に大切な自分の命を守るように仕組まれているわけだ。脳ミソの奥まで伝わる前の段階で、意識とは無関係に特定の筋肉が活動する。この能力は抗えないというより、無ければ困る。自分の身を守りたいと感じるのは、当然のことであり、本当によくできた身体の構造だ。では、ある程度の時間がある中で「自分の身を守る」ような場合はどうだろう。そのときは、自分の意識の中で感知する時間があるのだから、それを避けるかどうかは本人次第だといえよう。

 

いきなりブン殴られたら、誰だって交わせない。ただ、これからパンチを喰らわせられることが分かっているのならば、互いに入れ違いにすることもできる。熱血青春ドラマで、軟弱な部員に「喝」を入れる為に、自分の拳に涙を垂らして殴り倒した名シーンで、その部員たち全員が、パンチを避けることをしなかった。これは、相手の愛と友情の証だということを理解できているからである。ただ、私は「自分の身を守る」という表現を、あまり好まない。それでも、その表現を使わなければならないときには、何か別の言い方があるのではないかと思って、いつも言葉に詰まってしまうことがある。

時は会社員の頃。訳のわからないイチャモンをつけられて、仕事が打ち切りになったのことなのだが、その直属の上司から言われた言葉が、その後の私のトラウマ化した「例の言葉」である。私が仕事の業務内容の確認書類に目を通していないという、根も葉も全く無いことを言われ、「ジブンのミヲ、マモリ」たいのであれば、本部に確認書類に目を通していることを言い続けた方がいいと言われた。ここで私が言いたいのは、しっかりやっていることを、何で改めて「やっている」と言わせるトンマな上司の哀れみの無さではなく、どうして自分の身を投げ打ってでも自分の仕事にプライドを持てないのかということだ。

キレイ事と言われればそれまでだが、私にとって守るべきは自分の教え子だと思っている。そうでなければ、1円にもならないテキスト作成に、睡眠時間をガリガリ削ってまで没頭できないだろう。それに、上司と真っ向から対立し、自らの妥当性を主張して、「今後この塾で続けていきたいのであれば従え」というタテ社会丸出しの中でさえも、やはり自分の身を守ることなく、何とかして教え子が気持ちよく学べる環境へ向かえるように争わない。絶対服従をしていれば、安定した収入がシッカリ口座に振り込まれるが、「自分の身を守る」ために暴君の野望に従うなら「振り込め詐欺」だと思っている。

「自分の身を守る」。この何とも言えない保守的な表現。全く進歩しない日本の教育システムは、特に若くて有望な先生のアイディアを踏みにじるように固まっている。そんなビクともしない教育の世界の中で、本当に優秀で賢く、全く打算的な考えではない善良な心を持つ先生が「出る杭」と見なされて頭からブッ叩かれている。教育変革の推進を望むなどという空回りした言葉を、お偉いさんは声高らかにしていらっしゃるが、少なくとも「自分の身を守る」ような考えの愚か者たちが、勝手気ままに振る舞っている限り、前に進むことはない。

 

ただ、私には少しだけ希望が見えた。今では、インターネットの発達により、個々人が自分の理想と夢を多いに実現できるプラットホームを整えられる時代に入った。自分の身を守るのではなく、自分の身を積極的に「発信」できる。私は、この思考力養成予備校代表として、自らの考えを堅実で揺るぎないものとし、さまざまな人に信頼されるような人間でありたい。そして、そこで出会えた同志と共に、当予備校の「共育理念」を揺るぎないものにしていこうとおもう。

 

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