思考力

sense

例えば、子供に、酷く恐ろしい「お化け」を描いてもらうとする。絵を描く能力が高いか低いかは別問題として、たいていの子供は、眼があって、鼻があって、口があって、耳があって、手があって、足があってという「身体」を怖く描くことで表現しようとする。実は、そこに「表現力」という才能を図る基準はできず、その子供に芸術の才能があるかどうかとは、全く別種の事柄なのだ。

仮に、リッチな設備の旅館にある池の筒に、水が注がれて、その重力で筒が池へ「コーン」という心地良い響きと共に動いているシチュエーションを、写真を撮ったかの如く、綺麗に描写できたとしても、そのような能力は、単に模写するだけの能力が高いだけで、やはり「美的センス」の高さと直結するものではないと私は考えている。お化けを想像して描くにせよ、旅籠屋の中の動いている竹筒の静かな状況を描くにせよ、網膜に映る対象を正確に描くことそのものに、芸術的要素の基準はないとも思っている。

「恐怖」や「静けさ」などの肉眼で視られない対象を、いかに表現できるのか。そこにこそ、芸術家の真価が問われるのであり、それを表現できる力こそが、芸術性の高さと言える。心理学のカウンセリング法である「ロールシャッハテスト」というインクのシミを視た印象を応える心理テストを受けたことがあった。その時は、インクのシミを視た際の印象を、カタチの印象を言葉にすればいいのか、感覚意識を言語化すればいいのか迷った。後者なのであれば、そのカウンセラーの芸術的センスが及ばない世界に入り込んでしまう。そのインクのシミの中に、「絶望感」を感じたのであるが、それを言ったところで、そのカウンセラーの意識の中と私の世界それとは、全く異なる心的感情が生じるわけであり、その心理テストそのものの意図が分からないまま終了となった。

最初のシミを見て、「絶望」と答えようとしたが、その後の受け答えが面倒なので、「二人のインディアンが向かい合って踊っている」と答えた記憶がある。当時、インディアンジュエリーにハマっていて、「ホピ族」の代表的な「ココペリ」という豊穣の神が、二人で互いに向き合って笛を吹いているというファーストインプレッションからの回答だった。それはそれで、カウンセラーは困ったのだろうか。カウンセラーの芸術センス次第で結果が異なるとなれば、基準はバラバラであり、ほとんど意味がない試作検査。今年の「大学入試共通テスト」の問題であった、採点基準が曖昧になるということで見送られた記述式問題の見送りと同じではなかろうか。

「星空」のイラストを描く仕事を、クラウドソーシングで依頼すれば、リアルな星やキュートな星、はたまたキラキラと宝石のように装飾された「カタチ」のある作品が送られてくるはず。おおよその作品は、五角形を基調にしたペンタゴンシェイプ。可視化できない星の中にある「可能性」などを依頼者が求めているならば、その星は「カタチ」に過ぎない。もちろん、依頼する側であっても、星の内部にある言語化できない何かを依頼することそのものが不可能に近いので、やはり求めている作品を確実に入手できることはできない。

私の授業において、英語の三大要素は、「A=B」「A≠B」「因果関係」と教えている。芸術センスが可視化できる対象の描写であると、一般の多くの人が考えているのに対し、私は、その考えそのものには懐疑的であり、作られた物に対して感化された自分の精神的な動きを、自分の本能と理性の狭間で表現することこそが、芸術に愛されるにふさわしい人材だと思うのだ。

本能から湧き上がるとでも言おうか、直感的に自分が感じる「センス」に対して、周囲が反対する資格などない。ましてや、本人が、将来に花が咲くと希望を感じている、言語化することも可視化することもできない喜びの可能性を、他人が勝手に「才能がない」と決めつけ、一方的に踏みにじるようなことは断じてできない。そのような爆弾を抱えて接近してくる頭の悪いヒトは、必ず一定数存在することは事実であり、そのようなバカと過ごしているうちに、常に流れている「時間」という貴重な財産と、これから自分が作り上げたいと想っている“fact”に、目を背けたくなる衝動が生じてしまう危険だって出てしまう。

極限状態で頼りになるのは、他ならぬ自分の経験と力しかない。そして、その二つを持ち続けようと決意すると、一時的にせよ周囲から浮いてしまうことも免れない。ただ、自分の精神と肉体と個性を向上させ、自分の美学や哲学を構築するためには、這いつくばった時であっても、常に立ち上がり、自分の意識を蘇らせ、周囲の雑音を「断捨離」していかなければならない。最新の科学的研究によって明らかになった「断食」による、脳と体の若返りと同様、常に現状に対する疑問を持ち続けられる人材は、常にアップデートされたハイクオリティーな創造性の高い結果を残している。

徐々に目標達成に近づくにつれて、そんな目標をやめたらどうだと言って、直前に足を引っ張ってくるニンゲンが出てくるケースも多い。そのような輩たちは、時が経つにつれて、無駄な人生を送っていることに薄々感じ始めていて、自分の人生に自信を持てなくなっているだけ。目標達成の直前は、しっかりと成功イメージを持ち続け、ゴールへと猛進することに専念する。進歩を妨げようとする輩共のスピードなど、たかが知れている。そのままどんどん加速していけばいい。

芸術性に限らず、自分の才能の開花を支えるために必要なことは三つあると思う。大衆に埋もれてしまう恐怖を克服すること。誰かのセンスと自分のセンスは別物だと認識すること。初速とゴール手前の雑音を遮断すること。この3要素を意識することは、極めて大切だ。求めるべきは、自分の感情を豊かにする、未来の「理想」「実現」「快感」だ。それぞれ、可視化することも、具体的に表現することもできないが、目指すべき到達点というのは、中から外へ発信することそのものが不可能だと思っておいた方がいい。そうすれば、もっと人生が豊かで自由になると思っている。

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