思考力

静寂な深い川に強さを感じる

 

寝ずに海に行こうと決めた昨晩。もちろん、眠り薬など飲んだら寝込んでしまうわけで、一包化されている15錠ほどの薬の中から、気分の波を穏やかにする6錠だけを飲んで、事務的な仕事を片付けていた。この時期の日の出は、早い。だから、朝の3時半ごろに出発すれば、ウェットスーツに着替えた時に、日の出を拝めるという逆算が成立する。その時間に合わせるように仕事を片付けようとしたら、案外、早く仕事が片付いてしまい、何やら気分がソワソワとしてきた。

気分の波を穏やかにする薬は、あくまでも眠り薬と同時に飲んでこそ効果を発揮するようで、抑えられぬ焦燥感の中、母の遺影が目に入り、臨終間際に大泣きしたことがフラッシュバックし、涙腺が緩んでしまった。こうなれば、海に向かうなどという悠長な気持ちは消え失せ、眠ることでしか自分を癒す方法を考え出せず、そのまま残りの薬を飲んで眠った。目が覚めれば、夕方4時。見事に、12時間以上眠ってしまったようだ。このような状態で、昼夜逆転癖がついてしまうと、底無しの「鬱モード」に突入してしまう。今、自分の心の波を安定させるには、少々慎重にならねばなるまい。

今や、夜に書くようになったブログ。これは、他でもない「サーフィン」へ向かう時に、文章を書きながら、落ち着かない心の状態を引きずり、思わぬ足止めのような状態になることを回避したり、乗れそうな波を追いかけ回しながら、帰宅すればブログを書かなければならないという義務感で気持ちが萎えることを避けるためだ。日本では、寒くて海に入るなど狂気の沙汰だと思われるような2月に、南の島では常夏の状態。そんなうらやましい環境の中、サーフトランクス一枚で、華麗な技を決めているサーファーのセッション動画が流れているのを観れば、やはり気持ちが浮き足立つ。それに、中年の私とて、最近の波乗りのペースに伴って、徐々に波乗りスキルも向上しており、さらに技を改善させたり、誰にも教わったことのないサーフィンテクニックの動画を観れば、ますます気持ちが昂ぶる。

ただ、そんな楽しい気持ちになれた要因は、熱中できるサーフィンに没頭できていることもさることながら、やはり、毎晩服用している薬が、ガッチリと私の心を安定させていたことは事実のようだ。一回でも薬を抜いた状態で海に行くことができなかったことからも、水曜日の朝の予報通りのグッドウェーブを掴み損ねたのは、詰まるところ「薬」次第だったのだ。安定した気持ちを側に置き続けるためには、私には薬が不可欠であり、それが無ければ、人生のやりたいことができなくなってしまうのかと思うと、なんだかやるせない気持ちになってしまう。

有言実行。私は、熱し易く冷め易いながらも、このブログの毎日更新であっても、もう半年を迎えようとしている。やると決めたらやる。ただ、やると決めるまでが大変で、実際に「実行」してしまう頑固者だから、なかなか「有言」できない。ただ、有言する権利があるはずでも、それを言ったら処罰を食らってしまうような事実もある。ある国の圧力に対して、発言を厳しく取り締まられ、その窓口の日報が休刊になったというニュース。人生には、それぞれのステージや年代別に危機が訪れることがあるものだが、自分の考えそのものを言う権利や資格を剥奪されるというのは、どれほど苦しいことなのだろうか。それこそ、自由という名の元で、実行したいことがあれど、「有言」できないということは、ひどく苦しい。

人生に訪れるチャンス。人生に訪れる危機。対極にある状態であっても、両者に共通することは、人生というレールの上で迎える出来事ということだ。そして、それは、自由を尊重された状態で、個人が受け入れるか拒むかを決定することができるはず。それが、個人という枠から、どんどん大きく範疇を拡げていけば、最終的に取り締まられるのは、最終的には、最小単位の「個人」となってしまう。それが、今回の日報の休刊の問題のように、国家レベルであれば、自国に不利な真実を揉み消すことなどは容易くなり、言論の自由などという権利は、容易に剥奪されてしまい得るのだ。

私も、かつて10年以上闘った「行政」という大きな組織があった。そこは、シッカリと警察と繋がっているわけで、私という小さな存在が、本当のことを強く主張したところで、ビクともせず、唯一得られたものといえば「虚しさ」だけだった。このような避けられない現実があり、本来変えなければならない事実であっても、今日明日では変えられないのであれば、悔しくても自分の怒りの向きを、違う方向へ向けなければならない。ただ、ここで絶対にしてはいけないことは、その矛先を自分自身に向けることだ。

押しても引いてもビクともしない世界を動かそうとして、自分が動けなくなってしまったあの頃。私に必要だったことは、「無言実行」だったのだろうと思う。

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