思考力

暗い部屋の時計の針

 

鬱で、指先一つ動かせなかった20年以上前。底なしの暗闇に落ちることさえ億劫で、ロープを用意するのもめんどくさく、溜め込んだ薬を一気に飲んで、あの世へ向かう準備はしていた。ただ、当時から、致死量に至るほどの薬を飲むことは不可能に近く、仮に、それが成功しかかったとしても、中途半端な状態で救助されれば、地獄の「胃洗浄」なるものを受けるということは知っていた。そんな苦しくてめんどくさいことをされる事すらめんどくさい。とにかく、目が覚めなければ、どれだけ楽だろうかということばかりを考えていた。

統合失調症だと誤診され、就職活動をしなければならない、輝かしく貴重な大学三年生から4年生になるまでの1年間、私は家で布団にうずくまりながら、何をするわけでもない底なしの沼に落ちることばかりを願っていた。そして、中途半端に、しかも全く合わない薬を山ほど服用していれば、その副作用も当然出るわけで、当時、「アカシジア」という副作用で、椅子にじっと座れない症状が出てしまった。これは、本当に地獄だった。椅子に座れなくて、歩く気力さえ奪われてしまったのであれば、残るは横たわるだけ。どんどん現実世界から取り残されていく私は、やはり、最終的に到達する世界の着地点までの時間を短縮する方法ばかり考えるばかりであった。

当時は、インターネットが普及し始める過渡期で、大きな箱の中で、細かな文字が打ち込まれている。そんなことをできる能力が、自分には、1ミリたりとも備わっていないことは明らかで、そこからの劣等感も、とても強かった。鳥のさえずりを聞いて、眠りに落ちる。太陽が一番高く昇っている時間に、深く眠っていたであろう生活リズム。肝臓が悲鳴を上げていることが分かるほどの量の酒と、肺がギュウギュウと締め付けられているのが分かる本数のタバコ。それらを体内に入れていたわけだから、今のコロナ禍では、1発で感染してしまうのかもしれない。ただ、当時はそれで良かったと思っていたはず。コロナだろうが何だろうが、一気に死に近づける「術」があるのなら、それが欲しくて仕方がなかった。

未曾有の大惨事。疫病が蔓延し、世界が混乱の渦に巻き込まれている。まさに、20数年前の泥沼の中に埋もれていた私の心の中が、こんな状態だった。今度は逆に、そんな底なしの沼にはまり込んだ当時の自分が、20数年後に、千葉で一人暮らしをし、インターネットを駆使して、クラシックミュージックや小鳥のさえずりを聞きながら、こんなに穏やかな気持ちでブログを書いているなどとは、予想だにしなかったはずだ。今、住んでいるアパートの入り口には、テーブルと椅子が置いてあり、そこで、入居者たちがバーベキューなどをやるそうだ。私が入居してからは、まだ行われていないが、今、そのテーブルに腰掛けて、いつものコーヒーを飲んでいたら、この上ない幸せに包まれた。

私と同じ病を持ち、バーの階段で足を滑らせて、この世を去った「中島らも」という作家がいる。自分が鬱であったころであろうと、躁であったころであろうと、常にそれを笑いに変えて、コミカルに話をする彼の話術には脱帽だ。悲しかったことを、涙ながらに語ることはできても、そこを一度冷静になって考え、それを笑いに転換するというのは、相当な頭の回転の速さを必要とする。それくらいの賢さがなければ、素晴らしい作品などできやしない。先日、なぜかオススメ動画に出た彼の動画を観ていたら、やはり必ずどこかに「オチ」がある。何も考えていないようで、彼の頭の中は、普通の人の数倍の早さの時間感覚で、脳の回路が俊敏に動いているはずだ。そして、間の取り方も絶妙である。

時間という概念そのものは、時計の針の進み具合と自分の心で感じる針の動きとは、必ずしも一致しない。人を待っている時の15分と、愛している人と過ごす3時間は、過ぎ去っていく時間の感覚が全く違う。だから、待ち合わせの時間までのリミットや、試験時間終了までのリミットの針の到達点などは、みんなが、軍隊のように動くための目印のようなもので、時計の針を読むことができない人間以外の生物にとって、時間の存在というのは「無い」のだ。そもそも、言葉を持たぬ生き物に、「死」という概念すらないのだから。そう考えると、時間にルーズな人というのは、自分の中の時間が、限りなく動物的であり、自分のスピードでしか動けないわけで、集団での秩序を守れない場合が多い。

私は、過去、そのような輩に、時間やモノ、挙句にはカネまでも奪われかけた経験がある。今考えれば、自分の弱い心の中に、独りでいることへの恐怖のようなものがあった。どこかしら何かのグループに所属していれば、そこでの役割が、自分の幸福につながるのだと思っていた。ただ、このように、ワンルームのシンプルな部屋で、モノを持たない暮らしをしていれば、人間関係の整理整頓ができていることの幸せを感じられ、今では、誰かとつるんで生活するなど真っ平御免といったところだ。これこそが、私の求めていた生活だったのだと、しみじみ実感している。

ニートになる子供の育て方をしてしまった親。強い自責の念に駆られることは、当然だ。「7040」から「8050問題」へと数字が変わり、ひきこもりの問題も、さらに深刻化していく。何年も何年も、暗い部屋にひきこもり、過去のツライ経験を思い出しながら、悶々としているのには、どれだけの力が必要なのだろう。ただ、ひとつだけ身近にある「物」から解決できる方法もあるのかもしれない。それは、一番大切な自分の「部屋」という住処を脱出すること。せめて、家にある全てを、もっと少なくすれば、問答無用で床に転がっているモノ全てを、目を瞑ってでもいいから捨て去っていくことなのかもしれない。私は、このような整った部屋の中で、爽快な時間を迎えられるのが、鬱屈と生活していた頃の2倍くらいの充実感ではないかと思っている。

ツライ過去を、知識として変え、自分をアップデートする究極のエネルギーとする。そして、自分と同じような苦しみをしている人が、世の中には、たくさんいることを知るだけでも、全く心の波長のブレは、少なくなるに違いない。今、ステイホームで、多くの人が自宅で生活している。それならば、自宅待機の先輩である自分が、どのように部屋で生活すればいいのかを考え、世間に知らしめられるチャンス。大規模イベントで、11月にも酒が解禁されるような、先走り政策が現実化するのを待っているよりも、今は、やはり自粛するべきだ。その自粛要請をしている引きこもりやニートの人の生き方や、心の辛さというのは、今の自粛生活をしている人たちの苦しみの鏡なのだといえよう。

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