思考力

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少し風が強い日曜日の昼間。日差しも強い。数日前のカーステのウェザーニュースの予報は当たったようだ。ただ、一昨日だったかの「アクシデント」で、精神的バランスを大きく崩してしまい、とにかく「眠る」ことでしか自分を癒す方法がなかった。言い方を少し変えてみると、どんなに世界中の人に嫌われたところで、私には「眠り」という味方がいる。そう考えることで、少しは救われる。睡眠が友人だとしたら、最近は、構ってもらえなかったが、念願の「コアラマットレス 」との相性が良くなり、その友人に心の癒しを補助してもらったというところだ。おかげさまで、よく眠れる。睡眠という友人のおかげでよく眠れるというわけだから、これからもずっと仲良くしていきたいものだ。

このように精神が不安定な状態であっても、フリーランスの特権さえあれば、時間の使い方に関しては、「ナマポニート」と同じ生活スタイルで人生の時間の消費ができる。とりあえず収入があるので「浪費」ではないと思っている。時間感覚と曜日感覚が失せ、眠りたい時に眠りたいだけ眠るという、快心の「寝」を得られる。ただ、気を抜くと昼夜逆転して、本来なら夜行性ではない人間の本能に抗うことになってしまうので、注意が必要。エジソン君が発明した「ランプ」が登場し、それが一気に世界中に飛び火をして、世界から夜の暗がりが消え失せた。それが、人間を夜行性にさせた大きな原因である。どんな大発明であろうとも、それが拡大して普及すれば、「メリデリ」が生じるもので、インフルエンサーの影響力が大きくなるほどに、バッシングも大きくなるようなもの。エジソン君も、人間を夜行性にしたという批判に抗うこともできない。

千葉外房で運転していると、街灯がやけに少なく感じることに不安が伴いつつも、「コンビニ」があることで、少し気持ちがラクになることがある。そもそも、コンビニの灯りに頼らずとも、安全に運転できるだけの街灯を普及させられるだけの「税金」があるのかもしれないが、ひとつの案を決議するために、何度も何度も確認案が必要となり、ハンコとハンコが滲んで、もう一回押し直さなければならぬようなフットワークの重さの日本政府の動きに期待しても、街の灯りは増えそうもない。トバッチリだけは喰らわないよう、せめてドラレコの録画状態がアップデートされているかは、日々確認しておくべきだ。

街頭ひとつとっても進まない日本の政策であれば、内閣官房の「COVID-19」に関する最新情報が「注目動画」としてオススメされたとしても、クリックする気も起きやしない。そんな「茶番劇」を閲覧するのに時間を費やすのであれば、いち早く「ワクチン接種」するための情報を知ることや、人類の歴史から考えると、とんでもない勢いで変化してしまった「食べ物の毒性」を知り、それを知識として仕入れ、極力避ける術を理解した方がよっぽどマシ。どんどん自分の健康寿命を延ばし、ワクチンを接種しても大丈夫な体質なのかを調べる時間をつくって自己防衛策を練り直す。これが今の日本でできる最善の策と言えよう。

そんなこんなで、色々と時間の感覚がズレてしまったのだが、時間を逆行させられるのは『まどマギ』の世界だけなので、けっこう「イタイ」ことをしてしまった昨日のことも記しておこう。昨日のブログに画像を差し込まないままアップロードしてしまったのだ。厳しめに言うと、毎日更新が途絶えてしまったというのか。Twitterでの報告もしなかったとはいえ、文章自体は、サイトへアップしていたわけだから「画像」を差し込むかどうかは別問題で問題なかろう。これは、些細な問題であるし、これを厳しく取り締まってしまえば、私に大きな一撃を与えた先日の「アポ無し電話人間」に、思いっきり足を取られてしまった事になる。ノーカウントで問題なし。

ただ、いまだにイライラしていることに変わりはなく、今日のブログ作成のBGMの選曲も手こずってしまった。「モルディブの波の音」は、純資産が100億くらいになったら、リベ大の両学長と現地で実際に聞く予定なので却下。日曜の朝、TOKYOのゴージャスなホテルのラウンジでリラックスできるピアノの音も、今の私の口座残高では虚しさが募るばかり。最終的には、BGMに「雨の午後の音」を流すことにしたが、恋人同士の「それ」は、私のメンタリティーを破壊するだけの「ノイズ」にしかならなかった。だから、心の休息が必要な時の「雨の午後」をBGMに選定して書き綴っている。

一時期、取り憑かれたかのようにブログで書き続けていた「釣り熱」も冷め、こんなにも夏のような日差しに恵まれた中であっても「波乗り熱」が湧かない。もちろん、無理やり行ったところで、まだ完治していない左手首の靭帯が、また損傷しそうだし、何より、連休最終日ともなれば、東京埼玉、はては関東外のナンバーの車がズラリと駐車場に並び、わざわざトラブって板をブッ壊すような愚行も避けたい。連休明けの明日あたりからは、波乗りも視野に入れて生活を立てなおそう。確実にウェットスーツのお腹周りは、玄関に置いてある「タヌキ」と同じような見事な恰幅になっているだろうが。

「雨の午後」をBGMに、昨日忘れずに買ったコーヒー豆の粉末を「コーヒーメーカー」に入れ、完全に滴り落ちた淹れたてのコーヒーを飲み、無添加のカシューナッツを食べている。大きく崩れた精神状態であっても、こんなに自由で優雅な昼間に文章を書ければ、次第に心も穏やかになる。これが、会社員という身分であれば、私は「サザエさんブルー」とともに、もう一寝入りしているはず。そもそも、ブログの画像を挿れ忘れたこと悔やむ余裕さえなかったはずだ。フリーランスでいられる自由に、感謝の気持ちを忘れてはならない。

そして今は、大学受験講師として、再び授業ができることにも感謝している。ただ、私は、このような「感謝」を「運」で得られたとは決して思わない。私は、20年以上、英語講師として教鞭をとり、どんなに粗悪な人間関係の中であっても耐え、その延長線上に存在していた素晴らしくて良好な人間関係が繋がっていた。その結果、今の幸せを手に入れられたのだ。だから、あくまでも継続の先に、必然と繋がっている環境を享受できていることに感謝している。中国が放り投げた「長征5G」の破片が、目の前に突如として落っこちてきたような確率の「偶然」を掴んだというわけではない。継続していれば、必ず道はつながっている。

今、素晴らしい受験生を担当している。とても純朴で明るく、誠実に受験という人生の節目を迎え、それを乗り越えようとしている人だ。そのような優秀な受験生と出会えたことであっても、適当に入ったカジノで爆益を得たこととは訳が違う。「継続」の先につながっていた人間関係が、必然的に存在していたというだけだ。「あぐら」をかいて「タナボタ」を待っていても始まらない。棚の下で大口を開いていても、親鳥が「ボタ餅」を届けてくれないのと同じ。

前回の授業では「仮定法」という文法分野を扱った。高校を卒業した人なら、必ず耳にしなければならない文法用語でありつつ、その後の人生で英語との付き合いを無くした人であれば、真っ先に記憶から消滅する用語なのかもしれない。そのような文法事項を、教室のライブ授業と同じか、それ以上の状態でオンラインにて理解を促せるよう、自宅をDIYカスタムしている。ただ、これは自分のためであって、これは「未来」へ出会う人との人間関係を良好にする「今」の最善の行為なのだ。

『Who Moved My Cheese ?』。この物語は、私が大学生の頃にベストセラーになった本だ。『チーズはどこへ消えた?』。物語のあらすじは、ほぼ忘れていたが、やけに面白かったので、ほとんど海賊版に近い『バターはどこへ消えた?』も、当時購入したことは、ハッキリと記憶している。世界的名著をパクるのには勇気がいっただろうが、その勇気くらいは褒め称えていいのだろう。その本の印税を悪いことに使わなければ。

この物語のあらすじと、書評などをネットで検索してみた。二人のネズミと二人の人間が、チーズを得るために起こした行動を軸としてストーリーが展開している。その展開ですら記憶に残っていなかった。書評として、変わりゆくシチュエーションに対し、臨機応変に行動を変えることの重要性や、本能であっても行動を起こした方がいいということをまとめた記事が多かった。優等生的な一般回答だ。もちろん、このような一般的な教訓に対して、否定的な意見が出ることもあろう。例えば、やたらと動いて失敗することもあるから「動かざること山の如し」が良いなど。ただ、私としては、さらに違う観点からストーリーを考えてみたい。

“Who moved my cheese ?”は、英語として強調されているのは「私のチーズ」だ。受動態にすると、“Was my cheese moved by whom?”となる。とりあえず、受験英語を指導しているので、文法の書き換えとしては間違っていない。ただ、タイトルの英文は、英語の特性として文末に強調が置かれることから、「私のチーズ」に焦点が当たっている。「誰」が犯人かとか、チーズの「動き」がどうかということよりも、「私のチーズ」に対してのストーリー展開を考えるべきだ。物語のタイトルは、極めて重要であることから、やはりタイトルのセンテンスが強調している部分は、「私のチーズ」ということになる。

では、その「私」とは誰であるかを考えてみることも、なかなか悪くない。いや、本来考えるべきことは、登場人物の動きから得られる教訓ではなく、追い求めているチーズの「所有者」は誰かを考えるべきであろう。少なくとも、英文法を考えて、文末に強調される情報が来るという特性を考えれば、至極当然だと言える。こう考えると、受験英文法を知っていて、そこから英語の視点で物語を切り裂いていく視点は、点と点を結びつけるだけの「二項対立」的な考え方を超え、「三項定立」的なロジックで、空から俯瞰して全体を捉えることもできる。まさに「三角ロジック」で考える私の授業にも役に立つ。

「私のチーズ」の「私」。物語の受け止め方は、千差万別。固定された「解答」というものは存在し得ない。ただ、今の私が考える「私」は、誰に当たるのだろうか。この物語の「チーズ」というモノは、登場人物4人の求める財産ともいうべきモノであるとすれば、誰かの所有物である「財産」を盗むかの如く動き回っている卑しいキャラクターの物語なのかもしれない。書評では、動かざるキャラクターを「悪」として批判する記事が大半ではあったものの、実は自分の利潤を追い求めるばかりになるのに嫌気がさした「動かざる」者こそ、一番の「善」なる者だとも言えよう。

毎日毎日、ブログを書き綴っていると、変化球を投げることが趣味となってしまい、へそ曲がりなことを考えるようになっているようだ。ただ、そんな非凡な考え方から、オモシロイ発想というのは、生み出されるということも、また事実なのだ。

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