思考力

AIのサイコロの目を利用する

A set of dice.

毎日、ブログを書いていると、その時に自分が聴いているBGMについての記述が必ずある。大体、私は手書きの原稿をつくるときに、自分の興味関心がどこへ向かっているのかを知るために、AIによって振り分けられた“オススメ動画”のタイトルのサムネイル とタイトルを参考にする。こうやって、うまく“AI”を利用することで、自分が機械を「利用する側」になっていられる。AIに任せるがまま文章を書いていることを、機械の奴隷だと揶揄するヒトが居たとしても、挫折することなくブログを毎日更新できているのだから問題なかろう。主体性があるのは、間違いなく私自身だ。

手段と目的を履き違えて解釈し、何らかの矛盾点を指摘するようなニンゲンなど、結局のところ、自分を高みに乗せ、孤軍奮闘している人の勇姿を観ているだけの愚か者であろう。そんな輩の非難の声があったとしても、彼ら彼女らの声が、やがて「悲鳴」に変わることは間違いない。そもそも、AIでオススメされた内容を自分の文章力で噛み砕いて創作するブログには、ある意味、自分の頭の中だけで完成させるよりもハードな能力が要求される。早速、このブログの出鼻から綴られている内容が、攻撃的だと気づく。そんな自分は、何かしらの焦りのような感情があるのだろうか。特段、食う物に困っていない状態で生活しているので問題ないはずだ。

今日は、そんなYouTubeのオススメ動画の中で、どんなBGMを選曲するのかを考えることがなかった。なぜなら、オススメ動画そのものに、ジャズもボサノヴァもヒーリング系ミュージックも自然音もなかったからだ。こう考えると、自分の関心そのものが、自分をいたわるところから離れ、自分の外界にある一般社会へと向けられてきたのだと思う。まぁ、人間というものは、自分だけが正しいと思うことをやっているという錯覚に陥ると、他人の言動の中に矛盾点を探すことで、自分のポジションを固めようとする卑しい生き物。そう考えると、このブログの出だしで卑下していた輩は、他ならぬ自分自身の投影であったことにも気づく。省みて己を知ることになった。気づいただけマシか。

musical note with brazilian flag colors on white background

では、とりあえず自分だけのBGMがオススメされなかったので、他にオススメされた動画は何かと見てみれば、やはり自分から離れた世間で起こっているニュースであった。北海道・広島・岡山へ緊急事態宣言が発令されたり、入管法改正案だったり、インドで変異株による市内感染があったり、パレスチナとイスラエルでロケット弾が飛び交っている中で、熱血記者がその模様を現地で取材している様子であったり。列挙した中の最後の熱血記者に関しては、あくまでも報道という中では、取材している記者の奮闘記のような「お涙頂戴」の光景そのものを、わざわざ放映する必要もない気がする。それを指摘し出すと、やはり「本末転倒」の状態を非難しているだけの輩になってしまうのだろうか。やはり私の視野は狭くて卑しい。

A little norwegian girl making the famous Edvard Munch shriek.

昨日だったか一昨日だったかもわからなくなった、万年時差ボケ状態の私だが、久しぶりに車でフラリとブックオフに寄ってみた。『News Diet』なんていう本があったが、開く前にすでに内容のアウトラインを知っている。不要なニュースを予め排除しておき、本当に必要な情報だけに集中する。間違っていたら申し訳ないが、おそらくそんな内容だ。別に、私は予知能力者でも読書の達人ではないのだが、さすがに毎日、暇さえあれば「本の要約」関係の本を耳に入れていれば、その本の内容のほとんどを把握しているのは当然だ。

最近のベストセラー本がズラリと並んだコーナーの9割は、その本棚のそれぞれのタイトルばかりではなく、大まかな内容まで知っている状態。開いて目次を見れば、怪しい「速読」や「爆速」などを使わずとも、難なく理解してしまう。つまり、今後の速読のスタンダードは、予めYouTubeで内容を知っている状態にしておくことになるのかもしれない。このように、日々の情報感度を鋭くしていれば、「若返りの薬」とか「究極の安眠法」などは、ほとんど内容がかぶっていることに気づき、最近では、わざわざ同じようなタイトルの本の要約系の動画を観ることさえなくなった。そう考えると、YouTubeの達人レベルにまで達したのか。少なくとも、現代において、かなり効率的にYouTubeを活用しているということになる。

先に書いた『News Diet』の内容を鵜呑みにしてしまえば、別に、昨日今日起こったニュースなど、毎日毎日の重要な情報ではなく、ニュースなど1週間に一度程度の確認だけで事足りる。だから、Yahooのニューストピックなど、「クリックしたら負け」だと思い、意図的に避けるようにしている。そんなスカスカな情報を仕入れる時間があったら、最近感動して泣いた『言の葉の庭』の主題歌『言の葉』を聴いて、歌詞を覚える時間に費やした方が得だ。それにつられて、次にオススメされた『婆心古狸』などという、タイトルすら読めない曲をクリックしたら、思いっきりGoogle側の思う壺なので、視野に入れることもない。あくまでも自分の欲しい情報は、秦基博の歌であり、「〜うつぼ」という漢字を変換することもできない歌手の歌ではない。

有益な情報というのは、その人によって異なる。ただ、自分の興味関心が、どの方向に流れているのかを、しっかりと把握しておくことは、非常に大切なことだ。波を求めるがあまり、気づけば離岸流にながされ、情報の波にさらわれてしまわぬよう、自分自身を監督しなければならない。だから、自分に「オススメ」されているAIによって振るい分けられている情報に、本当に実用性と有益性があるのかを、常に考えておかなければならない。

インターネットが普及する以前の予備校の世界は、情報が少なかった為、講師を盲信する傾向が強くあった。そもそも、どの座席に座ろうとも、モグリがそれほど発生していないのであれば、席は確保できる。それでも前の席を確保するために、長時間、列に並び、開門と同時に教室へと駆け上がる受験生たち。そして、それを後押しするべく、自分の講座を取らせる為に、今考えると少し胡散臭い勧誘をしていた予備校講師。情報が流通していなければ、こんなにも惨めな状態が普通に行われていて、、今考えるとあまりにも滑稽な場面が日常的に繰り広げられていることに気づく。

「ポルノ依存」が問題視されているが、まさに、禁欲していた若者の前に、軟弱なオタク族が「神」と絶賛するアイドルが現れたかの如く、教室へ流れ込む奇怪な雰囲気。今では、そんな講師の授業を、YouTubeで「タダ」で視聴できる時代なのだ。改めて観れば、受験の問題というのは、同じ答えになるように問題が作られている訳だから、どの講師であっても、絶対に同じ解答に至ならなければならない。予備校講師の仕事というのは、その解答に至るまでのプロセスで、いかに魅力的に受講生を囲い込むかということに成り立つ商売だ。そう考えると、受験という世界は、とても狭い。

私とて、英語講師になった理由は、20歳前後に費やした貴重な青春時代を、予備校に費やしたことにあり、その解答に至るまでのプロセスを解説している講師たちの横顔に魅了されてきたことが大きな要因である。そして念願叶い、自分が教壇に立つことになる。ただ、中途半端な実力だったため、狭いステージで舞踊することしかできず、知名度を上げることができなかった。ただ、自分自身が精神的に弱いことがよく分かっているし、多少ながら、名をあげた時期に、信じられぬほどのバッシングや考えられぬほどの攻撃を受けていた頃、この業界で自分自身を清い身で維持することはできないと感じていた。

ただ、今はどうだ。仮に、カリスマ予備校講師ほどの知識や実力がなかったとしても、自分自身が創意工夫をした状態で、自分の存在を発信することなど容易い。会社の一部品としてのステージしかもらえなければ、自分の売り上げなど上がるわけもない。だったら、独立してしまえばいい。ただ、それだけの話だ。その勇気を振り絞ることさえできれば、あとは結果はついてくる。そして、この一年以上の自由な時間の中で、このように自分の生き方を客観的に俯瞰してみれば、自分が自分自身の舞台で輝ける可能性があることが、十分すぎるほど感じられた。今後の“5G”の時代。巣篭もり生活もまだまだ続く時代。ここで自分を発信することを恐れてはならない。少なくとも、自分はそう信じている。周りがいくら冷やかそうとも、私自身の信念を冷さなければ問題ない。

さて、ブログも書き終えたので、今日の仕事は終わり。世間は週末を謳歌しているのか。結局、緊急事態だろうがマンボウだろうが、海には人が溢れているはず。ガハハと大口開けて笑っている人が大勢いそうな千葉外房で、今日の予定は掃除洗濯、カラオケ、しゃぶしゃぶ。素晴らしい。全部ひとりでできる。こんな自由な人生。頼むから邪魔しないでもらいたいものだ。

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