思考力

6人の師

 

「指導者」というのは、どこまで必要なのだろうか。大学生の頃、一番苦痛だった「英会話」の授業で、「W杯で負けた原因」についてペアで話をすることになった。“ペアワーク”というタイムは、隣の席に誰も座っていない私にとって、拷問の時間帯だ。そもそも、毎週、私が独りで座っているのだから、ネイティブの先生も気づいて良いはずなのだが、たまに板書をして気づかないこともあったり、そのくせ時折、“You're always lonely www.”なんて言うから、インディアンジュエリーに身を包んだ、サーファーを面と向かって笑える人が居い教室で、クスクスと聞こえる笑い声は、全て私に向けられているのではないかというトラウマの授業だった。

話を、「指導者」に戻そう。私とペアになってくれる女の子がいて、その子に恋心を抱きつつ失恋をしたのだが、私は、「それは監督のせいじゃないから」と、日本語で言った記憶がある。"Don't speak Japanese !"と言われた記憶もあるが、英会話ネタなのか指導者ネタなのか、話がゴチャゴチャになりそうだ。とにかく話は後者で、監督という存在が、チームに与える影響というのは大きい。私とて、小学生の頃、地区で”ナンバー2”と言われるほどのゴールキーパーだったのだが、やはりコーチの存在は大きかった。

小学校から中学に上がれば、地区でナンバーワンとナンバーツーの小学校の選手が合流することになる立地条件の中学なのだから、我が中学の選手のレベルは普通のレベルではなかったはず。しかし、弱小。個々の力があるというのに、全くもって弱い。他方、ナンバーワンが半分くらいしか流れなかった中学は、普通ではないほど強豪なチームであった。これは、間違いなく「監督」によるものだ。

私の中学の監督は、名ばかりで、サッカーの「さ」の字もよく分かっていない。逆に、先述の強豪チームの監督は、ハーフタイムでも選手を休ませることなく走り込みをさせるという、前代未聞の「鬼コーチ」だった。今では、サッカーであれ、野球であれ、私がどっぷりハマっているサーフィンであれ、超基本的なことから、最後の最後の詰めの部分を解説してくれるYouTube動画チャンネルがあるが、そこには「強制力」というものがない。類稀なる才能を開花させるためには、やはり、どんなポテンシャルを持っていようと、それを引っ張り上げる「指導者」が不可欠なのだ。

心を鎮めるようなヒーリングミュージックやジャズ。まるで、思考が整って、無心の状態になっていくかのような音調。それを奏でるための奏者というのは、やはり、しっかりとした指導者がいて、そこに正しい練習が加わったことにより、自分の実力そのものを発揮することができる。私も同じように、英語の指導者として、教え子の力が伸びるように創意工夫をしているのだが、最初から完全に拒絶した態度を示し、無視し続ける人もいる。ただ、それが悪いことであるとは言えず、頑固に拒絶することで、自分のポリシーというのが固まるということもある。

ここでの問題は、一度、その指導者の考え方を受け入れてみるという行為をしなければならないということだ。いわゆる「食わず嫌い」の状態では、何も身につかない。例えば、サーフィンでは、浮力のある板でレッスンを受け、そのショップの板を購入後、徐々にボードの長さを短くしていくというのが一般的な流れだ。もちろん、ショップも悪気があってやっているわけではない。ただ、最初からサーフィンを難しいものだと決め付けてしまうのは問題があるのではないか。

こう言うと、先ほどの「指導者」の意見に反しているという矛盾を指摘されてしまうかもしれないが、それは浅い。サーフィンを難しいものだと思い込み、そのままで終わりたくないのであれば、一度受けた指導者の考え方を、一度冷静に考え直すことも、非常に大切なことだ。例えば、私が英文読解で推奨しない「スラッシュリーディング」で英語を読んでいるのであれば、私の指導を受ける際に、一度だけ一定の期間で良いから私のやり方を習得してから、それまでの英語の思考法を比較し、合う合わないを判断してもらいたいのだ。

若いうちに、通り一辺倒な考え方に固執してしまえば、そこから先は、その凝り固まった思考をほぐすことが難しくなってしまう。予備校の世界では、自分の考え方が絶対であるという、まるで「布教活動」のような他の講師の批判が多いが、そんなものを盲信する事なく、一度だけ立ち止まり、他の考え方も取り入れてみることも大切な事だ。そこから、全く新しい視点や、新しい価値観に包まれた世界が広がっていくかもしれない。もちろん、どんどん浮気して、考え方そのものを「フルモデルチェンジしていけ!」などという突飛なことを言うつもりは全くない。ただ一つ、私が成長したと心から実感できた時というのは、振り返ってみると、全て何か新しいことを取り入れた時だったと気づく。これは、どの年齢に限ったことではない。

これからの時代、モノを購入したり、所有するという概念がなくなり、それぞれで“シェア”するという時代へと変遷していくだろう。こうなった時に、誰かの手垢のついた物など触れるかと言うかの如く、他者の意見に耳を傾けないのであれば、大きなビジネスチャンスを逃すどころか、世界から取り残されていく「NIPPON」という国から離れられず、のたれ死んでしまうことにもなりかねない。授業中に、私は、しばしば「自分の師匠」の話をする。その時に必ず言うのが、「私には英語の師匠が4人いて、人生の師匠が2人いる」という前置きをするのだが、決して八方美人のつもりで言っているのではない。私の人生を好転させてくれた「師」というのは、たった一人ではなかった。それは、人生の過渡期に大きく人生を好転させてくれたチャンスを与えてくれた人というのは、その時その時で違うから。つまり、一人の「師」だけであったのであれば、私の人生は、全く好転することなどなかったのだ。

ただ、6人の師に、一つだけ共通していることがある。宮沢賢治風に言えば、「ソウイウヒト二ワタシハナリタ」かったということだ。

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