思考力

5分という制限時間

時間は、有限だからこそ深い意味を持つ。例えば、先日、鑑賞した映画『鬼滅の刃』。鬼に無限の命を勧められようと、有限の命に自分の価値観を見出すキャラクター。限界があるからこそ、惰性で生きていては、決して得られない結果を掴むことが出来る。そこに。「感動」が生まれる。こんなご時世で、希望すらもてない多くの現代人の心を掴んで離さない作品には、やはり「時間の有限性」が含有されている。完全に、私なりの観点で考えたことを以下に記す。あくまでも私の見解だ。

自分なりの見解

井上雄彦氏の『Slam Dunk』と『バガボンド』の決定的な差異に「締め切り」という有限性を考えることが多い。前者を描き上げている氏は、『少年ジャンプ』の全盛期。若きの日の氏には、絶対的に抗えない「締め切り」というdeadlineがある。そして、その作品における最終戦の「対山王工業」では、秒単位の描写が、セリフのない状態で描かれている。これは、見えざる切迫した時間の圧力が、時間によって縛られていた作品を、開放の方向へ導きつつある描写ではないかと思っている。

対して、後者の『バガボンド』では、『Slam Dunk』という前作を凌ぎうる作品が出来上がりつつも、周囲が「スラムダンクの著者」という偉人へプレッシャーをかけまいとし、「デッドライン」を枠を作れなくなってしまった。すると、氏の作品に対する制限が無くなり、氏が向き合うべき相手が、作品から「自分」へと変わってしまう。すると、時間という見えざる圧力が作品を押すことがなくなり、「フワフワ」と宙を舞ってしまう。つかもうとしても、つかみ斬れない作品の中で、作品の中のキャラクターを表現しなければならないのだから、こんなにも苦しい状態もない。また、宮本武蔵という実在したであろう人物が、実在しているのか、はたまた、一度作品となった「宮本武蔵」の限られた生命の時間内に、どのような生を与えて歩ませていくのか。これを乗り超えることは、もはや不可能なのではないだろうか。連載がストップしている『バガボンド』。私の美的センスなど、100回生まれ変わっても、氏のセンスに追いつかないことはわかっているが、それほど的外れな見解でもないように思う。

今日、「制限時間」に助けられた。母との面会。コロナ禍で、面会制限がかかりつつも、文明の進歩で「オンライン面会」をすることができた。Zoomにて、「5分」。再開できた母の顔は、思うほど弱ってはいなかった。ターミナルケアの病院からの通話。次に会うことになるのは、生の世界の狭間。早く時間が過ぎ去って欲しかった。すでに、涙腺が刺激されていた。通話が終わった時には、安心して鼻水と涙を拭うことができた。制限があるというのは、何やら不自由なことのように思われる。もちろん、多くの場合において「不自由で息苦しい」状態なのだが、実際、制限があることで見えてくる「貴重な状態」が分かり、大切な結果を手に入れることもできる。対象を正確に把握するためには、「時間」という輪郭をつける事が大切なのだ。

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