思考力

2つのピンホール

 

双極にあるものに対して、「ああすればこうなる」という感じで話をまとめられるのは、実は極めて稀である。例えば、気分の上がり下がりの解説をしているときに、落ち込みと浮き上がりというふうに、大きく2つに捉えることはできたとしても、必ずしも「上がり」を褒められた状態と定義することは難しい。「上がり」のときに散在し、元に戻って落ち込むのであれば、多少は苦しくとも、家でじっと「下がって」いた方がいいのかもしれない。精神病の一つの双極性障害などは、まさにこの典型例であり、ハイからローにシフトチェンジしたときが一番危険だとも言われている。だから、この障害に関してだけ考えてみても、ハイを抑え込めばそれで良いという短絡的発想が通じないのである。

このように考えると、美人とブスを例にとれば、必ずしもブスを美人に引っ張り上げることが美徳とは言えないし、その逆も然り。やりがいのある仕事を求めるがあまり、自分がブラック企業で働いて、体を壊してしまったのであれば、働くということそのものが何なのかが分からなくなってしまう。これも、良い会社と悪い会社が「双極」で対立していると固執して考えてしまったときに起こる限界点である。自分が幸せになるために働くということが、そもそもの間違いであるのかもしれず、贅沢をしなければ、それで人生の大半を占める「労働」から解放されると考えれば、生き方そのものを「贅沢」か「質素」かで考えるべきだ。

ただ、全てを双極で考えてはいけないのかと言えば、必ずしもそうでもなく、全ては資本主義の法則で成り立っていると考えれば、その他の考え方を無視することと同じになり、仮に、全てが同じだとしたら、その考えそのものが消え去ってしまうのである。まさに『ちびくろさんぼ』の狼が、バターになってぐるぐると消滅してしまったのと同じだ。つまり、考え方が全て同じだと考えることそのものは、フィクションや理想論で終始してしまうのである。だから、とりあえずの第一歩として、まずは「双極」という対角で物事を判別することは大切なのだろう。

努力で「禁煙」できるか。禁煙できなければ「努力」が足りないのか。精神を病むのは「甘え」で、薬を飲むのは「弱い」ことなのだろうか。風邪をひいたら「同情」され、会社も仕事も休んで「薬」を飲むべきと言われるというのに。精神の病気の治療方法は、根性がたるんでいるから「腕立て100回」となるのだろうか。熱を下げることであれ、精神の回復を待つことであれ、「休息する」という治療方法を採るという部分の根っこは同じはずだ。何か一つの方法だけで、最強の自分が完成されるようなノウハウはない。

そう考えれば、自己啓発本の全ての偏った考え方を盲信するのは危険すぎる。盲信は、「上がり」を作り、それが信じられなくなったときに、ジェットコースターの如く「下がり」、バターのように溶けてしまうものだ。そんなときに、主体性を失っていた自分を恨むことや、猛進させた誰かを呪うのは筋違い。人を呪わば穴二つであり、双極の穴でもがき苦しむこととなる。将棋をさすときは、自分がコマをコントロールすべきであり、自分がコマの一部になってはいけないのである。そういう自分も、躁と鬱の間で生き抜いている。一度、ニュートラルにできるよう、たまにはリセットすることを心がけてはいるが、このクリスマスシーズンから始まる冬の時期のローギアが、なかなかエネルギーが必要な時期ではある。

そろそろ今年、最後の気持ちの整理をしたいと思う。物を捨て、掃除をし、とにかくシンプルにこの部屋を断捨離していこう。とはいえ、すでに捨てるものもほとんどない。だったら磨く手間が省ける。そして、それでも磨かなければならない物を、しっかりと磨いておこう。アップとダウンの間で生きていくためには、やはり、単調な作業がいい。シンプルに物事をまとめていくべきなのだ。

 

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