思考力

シェイクするスピードを上げる

 

やはり、もう季節は秋であり、朝晩は冷えるようになった。秋の朝陽と空気を部屋の中に取り入れて、窓を全開にしてサーキュレーターを回し、室内の空気の流れをクルクルと循環させるも、身体が冷えてしまい、結局のところ、机の前の窓を閉め、サーキュレーター風向きと強さの調節をしなければ、ブルっと身体が冷たさに反応するようになった。秋のジャズを聴くも、やはりどこか寂しげであり、暑さから釈放されつつ、この過ごしやすい季節に着地するも、何やら寂しさを感じるようになった。

もはや、いつ始まったのかも思い出せない「緊急事態宣言」も、総理の意向では、当初の予告通り、今月いっぱいを目処に解除することに前向きであるようだ。それに、東京での新規感染者数は、なんだかんだ言っても、減少していることには変わりがないと思われるので、経済の流れや国民の不満を解消するためにも、行動の制限を解除すべき時ではある。もちろん、この解除に対する意見も、賛成派と反対派に意見が二極化するであろう。「気を緩めずに」という前提での宣言解除ではあるが、マスクを外してガハハと大口を開けて話をできるほどの、ビフォアコロナ状態には、もう戻れるとも思えない。

では、アフターコロナでは、どのような動きがとられるのであろうか。高度成長期の激動の昭和の時代から、沈黙の30年の平成を通過し、全く予期できなかった「コロナ」という目に見えない敵と戦い、やがて共生を余儀なくされている令和の時代の幕開け。やはり、ここまで巣篭もり生活を強いられて得られた経験の中、いかにして家を出ずに生活するかということに焦点が当たることは間違いない。現段階での子供たちの憧れの職業となったYouTuberになるという夢であれ、あと5年もすれば、憧れの対象は変化し、今では考えられない職種に興味が注がれるようになって、YouTuberという言葉が「死語」になっているかもしれない。いや、その可能性を、とりあえず、今のうちから予想できる人材でなければ、これからの時代のスピードに追いつけなくなってしまうであろう。

今や続々と芸能人が参加している”YouTube”というプラットホームで、もはや稼げない人がほとんどであるが、それでも自ら主体的に主流となって、YouTubeに組む姿勢を維持できる人は強い。YouTubeで稼げない人の特徴を考察するよりも、YouTubeを作成しようとしている人と、最初から自分には向いていないと思っていたり、途中で投げ出して、チャンネルを閉じてしまう人との比較をすることの方が重要ではないだろうか。このような比較から分かることは、ゴリゴリのマッチョになることを目指しつつ、あえなく筋トレを続けられない人の共通点であったり、オリンピックの影響で始めたサーフィンで、サーフボード に腹這いになれなかったという理由で、サーフボード がインテリア化してしまう人が身に付けられなかった「習慣化」という重要な要素でもある。

これから数年で、家から一歩も出ずに買い物ができる時代がやってくる。これは、避けられない現実であるのかもしれないし、事実、すでに始まっているバスの自動運転などの技術革新の早さ。先ほどのYouTubeの芸能人の流入も、もはや当たり前の時代。あと数日で、本州に上陸するかもしれない大型の台風の進路であれ、技術革新が進めば、その方向を変えることだってできるようになるはずだ。ただ、それで悲しむ人種もいる。不謹慎なことであるのかもしれないが、それは、私を含めたサーファーであり、コロナで封鎖されている駐車場が原因で、海に入れなくてウズウズしているサーファーが、ゴロゴロいる。ここでサーファーも辛抱が必要だ。

近隣の住民から、路上駐車の問題の多くの苦情が寄せられている。コロナで自粛を促されている波乗りを我慢する程度のことは容易いと考える一般人にとって、波乗りお預けを理解することは難しいが、これはサーファーならではの禁断症状である。だが、たとえ共感を得ることが難しいのであれ、サーファーたちが意識を高くして、この海の中へ入れないという窮地を、自粛という形でしのがなければならないのだ。

先日、海釣り施設で、釣った小魚を、再び針に刺して泳がせていたら、リールから糸が強烈な力で引出され、その大きなリールの逆回転の音とともに、大きく竿がしなった。引き上げてみれば、畳半畳もある大きな「エイ」であった。仮に、尻尾に刺されたら、人間が死ぬほどの猛毒を持つアカエイ。それを周りにいたベテラン達がタモですくい上げ、針を外してくれた。それからは、強い一体感を得られた釣りになった。もし、釣り上げた魚がヒラメであれば、自分だけの収穫となったが、皆が敬遠する猛毒を持つエイを、皆で回避することで得られた絆に感謝した。そして、その猛毒を持つエイを釣り上げてから、「泳がせ釣り」の魅力にスッカリとハマってしまった。

何がきっかけで、何が大きく自分を変化させるのかは、誰にも分からないことだ。生まれて数時間で、その赤ん坊がパソコンを弾いて自分の才能を発揮できるわけがない。母親の脇の下から生まれてきて、七歩歩いて、「天上天下唯我独尊」と天を指さしたのは、ほぼほぼ真実とは思えぬ、お釈迦様の仏教伝来の「伝説」である。ただ、やはり真実なことは、習慣が人を形成するということ。これは、間違いない。ただ、それをチャンスを受け、身に付けたかどうかは非常に大事である。無理やり練習させられたピアノで才能を発揮できたところで、ある一定以上の才能は開花しないような気がする。あくまでも、何かの拍子に出会ったことから芽が出た才能こそが、自分の未来を形成し、その後の人生に大きな影響を与えるはずなのだ。

たまたま映画館を通った時に上映されていた『君の名は。』。少しの興味を持って映画館に入り、大きなスクリーンの中で繰り広げられる物語に号泣し、数日後には再び映画館に足を運んでいた。甥っ子が送ってくれたLINEスタンプと、たまたま通りかかった映画館で出会った映画の物語で、私の人生は大きく変化した。黒板に書いていた例文をそのまま『君の名は。』の例文にしたり、オリジナルテキストの表紙を『君の名は。』にしたり、雑談の内容を全て『君の名は。』の話にリンクさせたり。もし、あの感動のストーリーに出会わなかったら、私の授業はどれほどつまらないものになっていただろう。よくそんなことを考える。そこから、『天気の子』『言の葉の庭』などの新海作品を観たが、イマイチだった。それは、自分の中での主観であり、そのような自分だけの視点で対象を判断できる力というのも大切にしていなければ、大きな流れに飲み込まれてしまうだけに成り下がってしまう。

人生は、「カクテル」のようなものだ。どこかのBARに入り、そこのバーテンダーに注文したカクテルの味。そして、次のカクテルを考えたり、バーテンダーと話をしながら、次のテイストを考えて、呑んでみる。すると、自分の好みの味にたどり着き、自分の中にある趣向がわかる。このような現象は、大切にしていきたい。どんどん加速する世界の流れ。その中で磨かれる自分の素質。そこで、様々な要素をカクテルの瓶に詰めてシェイクして出てきた味に酔いしれて、自分なりの美しい軌跡を描いていきたいものだ。

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