思考力

待ったなし

 

気ばかりが焦っているのかもしれないが、今日は、コーヒーを淹れてから、それを飲みつつ、YouTubeを観て、そのまま出かけてしまった。「習慣」の素晴らしさを、散々書き綴った割には、大きなショックがあると脆くも崩れてしまうのかもしれない。何の手伝いもできずに、明日、母の肉の部分は消え、骨となって、今の家に来ることになる。コロナが先だったのが原因かは忘れたが、母が、今の私の住処に来る事はなかった。ただ、一戸建ての賃貸で、「49日」の仏壇を置く、「半畳」のスペースは、悠に用意できる。賃料の削減で、ワンルームに引越す前でよかった。「より良きところへ住め」。メリットはあったようだ。

今、こうやって記事を作っていたら、やはり長年衝突し、会うことも無かった兄弟と連絡を取らなければならないわけで、電話がなったときのディスプレイの文字も、「またか」という気持ちになる。今日は、本当に数少ない仕事が、夜に入っていて、その準備と明日の葬儀の準備、また、骨がかえってくる部屋の掃除。やはり、バタバタとしていれば、うっかりブログを書くことも忘れてしまう。親は、二人いるわけで、父を亡くしている私に遺された「母」の葬儀の前に、気持ちが落ち着かないのも当然といえば、当然。もう、「三人目」が来ないのだから、あとは、自分が続くだけなのだ。今生の別れの前に、ブログ1日くらいは、書かなくてもバチは当たるまい。

ブログを書かないで何をしていたのかといえば、今日、母の亡骸に手を合わせ、明日の火葬場の下見に行った。いつの間にか、道なき道へ入っていて、どう考えても到着しない道を、前に進むことしか考えずに進んだ。案の定、道は狭くなっており、火葬場の裏手の人独り入れるかどうかの道へ、車ごと入っていた。切り返しても進めず、後退する事もできない。見かねたスタッフらしき人が駆け寄ってきて、古いカーナビの案内だと、ここの道へ入ってしまうそうだ。そのままギリギリの車幅で進めば、池をグルリと周って、元に戻れるのだと云う。大恥も大恥。悪戦苦闘している間に流れてきた「カーステ」の芸人たちのバカ笑いも、何やら他人事のような遠くで聞こえるだけの虚しい宴会の雑音だった。

そういえば、今日は、まだ泣いていない。ハンドルを何回も廻した疲れから、帰りの公園でシートを倒し、そのままYouTubeの音声録音に入った。「疲労」というのは、悲しみを麻痺させるようだ。スマホに語りかけながら、周りではしゃぐ幼子たちの声も五月蝿く、録音後、すぐに帰路へ着いた。ただ、終始自分の意識が遠く感じているので、「安全運転」には、最大の配慮をしなければ、また、オリの中の病院へぶち込まれてしまう。そのときも、母は、来てくれたのだが、内側から鍵が開かない病院の中で叫んでいる私を見て、どれほど苦しんだのだろうか。

明日の今頃、母は、この隣の部屋の半畳ほどのスペースに、骨となって納まっているのだ。床屋の店主も、この1年間の喪失感は、凄まじいと言っていたが、極度の共依存状態にあった「私たち」にとって、本当の悲しみのスタートは、明日の今頃からになるのかもしれない。今日の授業中かもしれないし、今度の病院での受診の時かもしれないし、いつ何時、自分が泣き崩れてしまうのかは、全く分からない。明日の葬儀の間は引っこ抜いて、涙が溢れる寸前に「待った」をかけるストップウォッチが欲しい。そんな便利な道具があるのであれば、どんな人であっても、赤子のように泣くなんて恥ずかしいことをせずに済むだろうに。

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