思考力

3要素

 

生物的に考えると、人生には意味はなく、二足歩行になって、他の生物と異なり、極端に脳が発達した人間が、勝手に自分自身の身を案じ、生きることに付加価値を後付けする為に“SOS”を出し続けている「取り越し苦労」をしているだけ。そう考えると、死ぬまでの暇つぶしをしているだけなのだから、少しは楽になれるのかもしれない。しかし、人生を暇つぶしとは全く思えない時期があった。刻一刻と迫りくる試験日。なかなか進まない勉強。そんな私にとっての大学受験浪人時代というのは、とても辛く、常時カラダがグッタリとしていた。特に、2浪目に突入した時のショックは大きく、現役生の時に受かった大学を蹴ってまで浪人していたため、まさか自分が一年後に浪人を更に重ねるなどとは思っていなかった。

浪人をしているときに私が通っていた予備校は、かなりキャラが濃い講師が揃っており、けっこう宗教じみた感もあった。講師同士が、足の引っ張り合いをし、自分の授業へと生徒を誘導しているのも、やはり伝わってくる。それが商売。ただ、自分の授業に自信があれば、やはり自分の授業スタイルや自分の曲げられないポリシーを強く持っていると、やはり他の講師のやり方に不満が出る。職人気質の講師は、自分だけが正しいことをやっているという傲慢な考え方ではないのだけれど、独自の授業スタイルで他の講師より圧倒的に差をつけ、受講生を多く獲得し、曲げられぬ信念を貫き通していた。

 

当時の「大手三大予備校」の一つの最高ランクの講師の授業を選択し、それで学力が上がると勝手に思い込んでいた。当然、そのような講師陣の授業には、迫力があ利、同じ大学の問題、同じ解答なのだけれども、その答えをはじき出すための解説のプロセスが全く違う。そして、何よりも固唾を飲んで見守り、最後にどのような結末を迎えるのか、授業を受けているこちら側がドキドキする。授業中の迫力に圧倒され、そこに魅力を感じ、その講師の授業を盲信するようになる。そうなってくると、その講師に対して、もうすでに引き返せぬほどの「依存性」「中毒性」が生じる。そこまでくると、その講師の授業を更に受けたいと強く感じるようになる。まさに、薬で言えば、「耐性」ができてしまい、もっともっと授業を受けたくなる状態だ。

 

ただ、そこまで講師に依存してしまえば、その講師の授業にベッタリと粘着するだけになり、本来の目的である「大学受験」が見えなくなってしまう。つまり、自力で解くという本来の目的から大きく外れ、再現性のない満足感しか残らなくなる。無能な人間は、与えられたタスクしかこなすことができない受動的な生き方になり、そこから刺激が受けられないと感じると、ジェラシーの感情が芽生えてしまう。やがて、描いていた理想が、ますます絵に描いた餅にしかならず、その餅が「酸っぱい葡萄」に決まっていると考えてしまう。自分の生き方を変えることなく、他人を羨むようになると、目標を追う者の足を引っ張ることばかりに躍起になり、人間が本来持っている「より良く生きる」ために生じる「素晴らしい悩み」から全速力で逃げるようになってしまう。

浪人生のとき、諦めるにも諦められず、宙に浮いたようなフラフラな状態でも予備校へ向かった。それは、学力を上げるためではなく、この講師は、これからどんな方法で、自分のポキっと折れそうな心を奮い立たせてくれるのだろうという期待を得るためだった。辛くて、悩み、這いつくばりそうな自分を、きっと救い上げてくれると願った。もう一度、モチベーションを上げて欲しい。それを求めていた。

どんなに同じ問題であっても、解説次第で説得力が全く違う。これは、受験問題に限ったことではない。「自分たち」はどう生きていくのか。そのような一体感。「キミ」ではなく「私たち」。「君たち」ではなく「私たち」。この坂道を登る為に必要なヒントは、一丸となって協力して乗り超えた先にあることを教え、先頭で力強く引っ張ってくれる。

有能なリーダーの資質は、3つあると考える。まず、その分野の「スペシャリスト」であるということ。十分な打開策を構築できる柔軟な専門的知識が必須。そして、集団をまとめる「統率力」。そのパーティーの上位層と中位層の中間を意識して誘導できる力。全体のモチベーションを下げない水準をわきまえている。そして、何よりも「経験」。様々な困難をクリアしてきたリーダーは、臨機応変に危機を乗り超える能力があり、何よりも「余裕」がある。そこには、絶対的な量的経験値が不可欠なのだ。

今、YouTubeで、私の「母予備校」の春期講習の導入授業を60分程度視聴できる。私より若い講師の授業、私が惚れ込んだ当時の講師、いつの間にか中核となった講師、様々な経歴の講師の授業を観ることができる。10代後半に受けた予備校の授業に感化され、私は、英語講師という仕事を20年以上歴任している。そのような立場で授業を視ていると、やはり若手講師が緊張していることがわかる。どんなに隠していたとしても隠し切れていない。そこには「余裕」がないのだ。時間しか埋めることができない「経験」という決定的な重要事項が欠けている。

逆に、ずっと第一線を張り続けているベテランは、余裕のカタマリだ。ブレがない。画面に入った瞬間、そしてマイクを入れた瞬間、すでにこちらが「期待」してしまう。これから何をしてくれるのだろうかと。

そして、今、私が痛いほど感じていることは、受験までの期間に、いかに教え子が自分の力で問題を解けるようになれるかということと、いかにその後の人生で受験生の頃の経験を基に生きられるかを指導しなければならないという「使命感」だ。一過性の熱病ではダメだ。そして、芸人のように観て満足させるような授業でもダメ。それまでの学習と現在の学習から、未来に進むべき道のりを示唆できる授業をしなければならないと思っている。

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