思考力

事実で溢れさせる

恥ずかしながら、私は「新聞」というメディアを自腹で買った記憶がない。大学受験の「小論文」の授業で、「新聞を読まずに小論文の勉強などあり得ない」と言われたことがあったが、やはり新聞を読まずに、古本屋で文庫本を買って「文学」の世界に浸っていた。もちろん、そのようなナマケモノが書く文章には、客観的データがなく、自分の思い込みや先入観だけで書かれた「理想論」にしかなっていなかった。だが、今日の社会における「新聞」という紙媒体のニュースには、かつてほどの重要性があるかといえば、そんなことはない。新聞どころか、雑誌すら不要になりつつあると、私は感じている。

「内閣官房COVID-19に関する最新情報」と活字で書かれていても、「COVID」が何なのか分からなければ、そこから得られる情報そのものに意味を感じなくなるかもしれないし、たとえ、「COVID」が“coronavirous disease 2019”のイニシャルだと知らなくても、YouTubeのサムネイル やタイトルで、「コロナ関連最新情報」の枠の中に入った情報だとわかれば、その動画をタップすれば、最新どころか「LIVE情報」まで手に入る時代。新聞紙にインクを滲ませて、新聞屋が配達してポストに投函される前に、最新情報が塗り変わってしまえば、その紙は「メルカリ」の梱包材とかしてしまうかもしれない。

最後に勤めていた塾のジイサン講師は、机の引き出しに分厚い広辞苑を収納し、給湯室では山積みになった新聞を無作為に引っ張り出して、差し入れのクッキーをかじりながら、新聞を読んでいた。スマホどころか、電子辞書の操作方法も怪しかったのかもしれない。それなのに、かつてからのベテランを超えた「大御所講師」ということで、机の上にはパソコンが置かれていた。そのパソコンのマウスが動いているのを見たことはなかった。せめて、指の運動だと思って、フェイクでもいいから動かしてあげなければ、ネズミの形をしたデバイスも、ただの置物。それならば、マウスの代わりに、ミッキーマウスの人形でも置いてあげれば良かったのかもしれない。

では、「雑誌」に関してはどうだろうか。もちろん、思春期にそれなりの「雑誌」を顔を赤らめて、震える手でレジまで持っていった記憶もあるし、いかに女の子にモテるファッションを追求するかという目的で、ファッション雑誌を買い漁った記憶はある。ところが、新聞業界と同じく、雑誌も終焉を迎え得ることになるだろう。先述した「青年向け雑誌」だって、どんな男子であれ親に見つかってしまい、物的証拠が残ってしまう。なんせ、会社の最寄駅のコンビニで立ち読みをしているところを生徒たちに目撃され、私が雑誌コーナーの「左側に寄っていた」などというデマが拡散されたことだってある。そもそも、勤め先の最寄駅で「卑猥な雑誌」を読むほど、私は飢えていない。

インターネットが世界を変えたことは、否定できない事実であり、それを使いこなせていない者は、どんどん社会からのスピードに取り残されていくという事実は、避けられない。天気情報であれ、コロナの感染者数であれ、決まった時間にしか情報を受け取れない状態よりも、リアルタイムで得られる情報の方が、圧倒的に価値が高い。どうしても見逃せないテレビ番組があり、修学旅行などで観られないので、ビデオ録画をしていたのに、野球中継が延長され、時間が後にズレていて、お目当ての番組を見逃してしまうようなハプニングを、何度も経験していた。平成のど真ん中で、テレビからエンタメ情報を得ていた世代には、懐かしい話になるであろう。

印刷された紙の情報というのは、出版された瞬間に古くなるものであり、購入して住んだ瞬間に価値が失われる「新築物件」のようなものなのかもしれない。周囲の環境が良くなったり、土地そのものの価値が一気に上昇するなら別だが、そんな可能性は、ほとんどゼロに等しい。大卒エリートで結婚することが、人生の目標であったとしても、時代の価値観は変化していく。新聞や雑誌の価値がなくなっていったり、新築の物件に価値が失われていくように、皮肉まじりに「独身」であることを、既婚者に言われたとしても、その既婚者が今では、35年ローンの人生の終身刑で首も回らず、自己破産という「ギロチン」すら落としてもらえない状態であることもある。マジメまじめ真面目に人生のレールを踏み外さないように慎重に歩んできた人が、その「レール」というモノが、そもそも存在しているわけではないことに気づき、実は基準が変化していく曖昧なロープを手繰り寄せるゲームだと知って、語句然とするかもしれない。

バレンタインのチョコレートのお返しに、「ホワイトデー」なるモノが存在するのは、不可解な日本から発祥した下らぬ儀式であり、欧米ではでは、そんな慣習など存在しない。それを作り出した「元祖」は、自社企業だと主張しあっているという怪奇現象。企業戦略が、勝手に一人歩きして、日本人の「お返し意識」を植えつけてしまったのだ。すでに定着した企業の利益利潤を生み出そうという意図丸出しの「イベント」が、ここまで浸透してしまうと「今や昔」と言われることはないようだ。今年も、誰からもチョコレートをもらっていない私には関係ない。クリスマスの時期でさえ、サンタになれない私には、クリスマスにテンションが下がるという体質でもある。

ただ、世界でまかり通っている「常識」が、「非常識」であることが「ココ掘れワンワン」の如く溢れ出している。それは、科学的に正しい「データ」に基づく客観的データを伴い、否定する余地がない。「世界がどんどん悪くなっている」という事実は、人間の本能がネガティブ情報に向いてしまうという修正を利用した、メディアやマスコミが捏造した可能性もある。先進国と発展途上国という括りではなく、所得の階層を4つに分類し、人間の生活の「クオリティー」に目を向ければ、「世界が悪くなっている」という情報は勘違いであり、災害による死亡者数や貧困者数の減少、また、私が高校生の頃から叫ばれている「人口爆発」の一途を辿るしかないという固定概念だって、増加には「歯止め」がかかるというデータが、すでに出たのだ。

マスメディアのネガティブ情報を駆使した戦略に踊らされているのは、情弱の取り越し苦労であり、悲劇から脱出するヒーローのパイオニアなど目指さなくても、そもそも対象となる惨事が存在していなければ、ただの「痛いヤツ」になってしまう。“factfulness”という造語が誕生し、話題になっている。先入観や思い込を排し、あくまでも客観的データからの目線で対象を分析する。これには、その分野の「情報リテラシー」が必要である。それがあるのならば、メディアに洗脳されることもなく、医学の間違った常識から離れらるし、無駄な税金を徴収されることからでさえも避けられる。真実を物語る「データ」こそが、騙されずに生きるカギであり、そのような視点で物事を冷静に判断することこそ、豊かな人生を送ることと言える。

今日も早朝覚醒。朝の3時半に起きた。ただ、今日ばかりは、再度布団に潜り込んでグッスリ眠った。スケボーを蹴って、朝日を浴びる。メラトニンが放出されているはずだ。とても気持ちが良い。ゴミ出しの時間が過ぎていたが、ゴミ収集場の回収はまだ間に合う。家に戻って、前の晩にゴミ袋に入れておいたゴミを出す。近所の人は、相変わらず無邪気にスケボーを蹴っている自分を見てニッコリしている。挨拶をして家に帰って、煎れたてのコーヒーを飲んでブログを書く。そろそろ書き上げる。12時10分前。書いている途中に、ピロピロとスマホが鳴いていた。別に、すぐに確認しなきゃいけない連絡などない。こんな時に、心から自由を感じる。

二杯目のコーヒーも冷めてきた。ボサノヴァのBGMをかける必要もない春の風の音が優しい。今日の仕事は終わりだ。午後は、何をしようか。“FIRE”を目指して、公園の駐車場に車を停めてウツラウツラしていよう。別に、ベンツだろうが、余命一年を切った今の愛車だろうが、車の中の空気は変わらない。さぁ、出発だ。

-思考力