思考力

黒い束縛と白い先導者

しばらく、睡眠が安定しておらず、脳が疲弊しており、ストレスが溜まっていることが容易にわかる。別に、交感神経が優位に立ち過ぎて、副交感神経の出番がなくなっているわけでもなく、副交感神経も身体をリラックスさせることを放棄しているのか、ストを起こしているのか、どんなヒーリングミュージックを聴いて「α波」の分泌を促そうとしても、リラックスして、心を落ち着かせ、心地良い自律神経を整えることは難しい。生活リズムが狂ってしまうと、やはり精神的なダメージは大きい。

一度でも「負のループ」へ入り込み、自分の進むべき方向が分からなくなると、負の感情が噴水の如く放出され、それを整えるのは容易なことではない。どんなに素晴らしいヒーリングミュージックであっても、ドン底状態を抜け出すのは難しい。ただ、今回の睡眠障害では、心の大きな崩れは比較的少なくて済んでいる。生活全体が、夜に食い込んで「時差ボケ」のような状態。自分の努力次第で、精神的な乱れは、かなり解消できそうでもある。

昨日、以前務めていた会社に、再び講師として勤務希望のしたいという旨を、メールにて送信した。その会社の大黒柱の塾長は、芯がとても強い人であり、全く動じることもなければ、何かに媚びへつらうこともない。全体の雰囲気に神経全体を集中しつつ、事務的な作業をこなし、各ブースから漏れてくる授業の声から、各講師の授業の進み具合や、講師と生徒との相性などを感じ取っている。そんな塾長のもとで「4年3カ月」もの長期間、勤務できたことは、このブログでも何回か紹介している。そして、そのような仕事ができるリーダーのもとで、自分の授業スキルを上げられたことを、今でも誇りに思っている。

世の中、知っているか知らないかで、大きく成果や得られる報酬が異なってくる。いかに「キレイ事」を言ったとしても、実生活そのものを成り立たせるためにの必要最低限の経済的ゆとりは必要であり、今の私の現在の収入では、生活の収支は「大赤字」。人生をより深く考えるために必要なことは、まず、自分の経済的安定を図ることからスタートせねばならない。その事実をシッカリと知っていなければ、全く前へ進めない。現実に目を背け続けていれば、得られるはずのチャンスも掴めなくなってしまうのだ。そのような中で痛感していることといえば、自分の中で考えるほど、個人事業というのは上手くいくものでもなく、その事業を確実に成立させるための両軸の企業も必要。ただ、自分がやりたくもない職種など、真平ごめんであり、自分の適性にマッチし、伸び伸びと勤務できるキチンとした企業で働きたいと思っている。

会社員では、収入が青天井になることもないし、税金も取られ放題。収入から控除が引かれる「税引き後」を、給料として受け取るだけ。ただ、優秀な上司が全体を統制している会社なのであれば、話は別だ。フリーランスに近い働き方、無駄な事務作業が皆無で、授業のみに専念できる理想的な環境。そこで、大いに活躍したい。自分に嘘をついてまで「お金」に固執することもないが、変にプライドばかりが高くなって、自分の仕事に制限をつける必要もない。千葉のブラック企業で、苦行を強いられた私は、講師生活の中で4年3カ月という長い期間勤められた勤務先が、いかに恵まれた環境だったのかを、ひしひしと感じている。

ブラック企業で、どんなに自分が過去に大きな実績と経歴を持っていたとしても、私自身が自分の意見を曲げない「頑固者」なのであれば、大きな組織の一部では使えない人材というレッテルを貼られてしまい、心身共に徐々に蝕まれていき、死んだ目をした魚のような顔つきで呼吸をするだけのガラクタになるばかり。そんなガラクタになりかけた一年前の自分が、これから先にある歓迎すべき未来の生き方をつかもうとしている今の自分を、心の底から応援してくれているようだ。だから、過去の自分の成果を知っていて、それまで積み上げてきた実績を知り、自分の真の実力を知っているかいないかで、その後の人生の充実度が大きく変わることを知った。

若かりし頃。何の経験もないまま、そして社会の仕組みも知らないまま、教えることに専念することのみを優先し、どうやって人生を希望で満ち溢れて豊富なものにするのかを考えていた。どんな仕事であれ、労働すれば、収入は得られる。そして、その仕事に専念し、仕事に誇りを持ち、誰かに優しい気持ちで接することができるような人間に成長できるほどの器を持ちたいと、ほとんどの人が思っている。中には、仕事に「やりがい」や「理想」を抱くことを否定し、ただただ、ひたすらに稼ぐことだけの場だと考えている人もいる。それはそれで、その人の考えだから、否定するつもりはない。ただ、私は、仕事には誇り高き情熱が不可欠だと思っているし、そのような高い志をもてる職業でなければ、給料をいただくことはできないとも考えている。

黒い企業にイジメられた腹いせに、その事実の証拠を探し続け、自分の妥当性を言ったところで、「お疲れ様です」という言葉くらいしか返ってこない。危険を感じつつ、いいタイミングで抜けられたこと自体に感謝する余裕も必要だ。あえて、無謀なことというか、結果が出ないことをガムシャラに追求したところで、時間と労力の無駄にしかならないという経験を多々してきた。必要な反発と、不必要な反逆を明確に識別できる能力が身についていれば、イライラしていること自体に、対して価値がないことにも気づく。

日本の教育というのは、古くから伝承されているスタイルを大きく崩すことなく今に至っている。教えられている内容も、過去に教えられた事を、後に大人になった人が、過去に受け取った知識に手を加えて、生徒に伝えている仕組みだ。マイナーチェンジを繰り返していることは事実ではあるし、過去から現在へと、一貫して繋がっている教養を弟子に伝えていくということそのものが、無意味というわけではない。ただ、大きな悪影響が生じていることも事実。

まず、結果ばかりが優先されていること。このブログでも、さんざん書いたことであり、当予備校のポリシーである「打算的な勉強からの逸脱」が、いまだにできていない側面が大きいことが否めない。また、その後に続かない勉強しか教えていないこと。これは、先ほどあげたことと被るところもあるが、やはり「合格して終わり」の学習で終わっている。「微分積分」「化学の元素記号」「歴史の年表」「古文の助動詞の活用」など、今後の人生の役に立たないという理由で、完結してしまう。確かに、私もそれを批判するほど偉そうなことを言えないが、少なくとも、数学的に物事を考えることは、論理的に思考を整えて考えることと直結しており、歴史の流れは、時に習った事実と違っている可能性も出てくる。そうなってくると、古文の常識も疑う余地が出てくるかもしれない。そこに、知的好奇心というのが芽生え流ほどの教育が、日本の教育現場で行われているとは思えない。

 

これからの時代、義務教育に「プログラミング」のような、IT技術に対応できる力を養う科目を取り入れるべき時代だと思うが、今日明日に変革できるほど、日本の共育システムは緩やかではない。それは、現場で動いている者の生の意見を取り入れられない、ブラックな組織ともいえる。今までのシステムの凝りを、柔軟にほぐすためには、柔軟な対応ができる学習の場が必要である。そして、今後の塾の産業というのは、まさに、学校教育では実現不可能な指導を、積極的に取り入れられる企業が残るという時代に突入したのだ。そのような意味で、優秀なリーダーが常駐している学習塾のニーズは、ますます高まるであろう。

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