思考力

非凡な夜

毎日が「生産性」「効率性」「集中力」などのワードでタイトルが埋め尽くされているYouTube動画。もちろん、YouTubeのアルゴリズムや、SEO対策をしているチャンネル、または、一番その原因となっている「AIおすすめ機能」で、その個々人の趣味嗜好が偏っていることを示す結果になる。そのような意味では、私の最近の考え方全てが「合理的」な結果を生み出すチャンネルに偏ってしまっている結果に結びついてしまうことに気づく。こうなってくると、自分自身が潜在的に効率性を追い求めるようになって、脳の思考回路が無意識のうちに疲弊するするようだ。これでは、私の立ち上げた予備校の「打算的な考えを避ける」というモットーに相反してしまうのではないか。多少の回り道であったとしても、しっかりとした思考過程を重んじるということを優先するのが目標なのだから。まぁ、少なくとも、怠惰なゲーム実況動画や、閲覧後に虚しさしか残らないエンタメ動画を観るよりはマシ。

ただ、やはりここは、経営ビジネスと信念の貫通が対立する部分でもある。教育とビジネスには、理想と生産性の構造が、どうしても足を引っ張るケースが多く、特に、学習塾・予備校のお客様としての生徒の扱いと、教育者としての生徒の扱いの狭間のジレンマに、すっぽりと挟まって抜けられなくなることが多い。ただ、最近では、それこそ前述したキーワードの「YouTube」という媒体を通して、無料で一流講師の授業を閲覧できるようになるという夢のような形態での授業が行われるなった。これで、中途半端なガクセー講師や、お小遣い稼ぎの経験の浅いコーシを扱き使うカイシャが、バタバタ倒れていくのは間違いない。ただ、無料で授業を提供するとはいえ、どうしてもYouTube広告の収益だけの会社経営には限界もあり、やはり別枠で有料講座を設置しなければ成り立たないのが現状。学習の機会を貧富の差で区別できないように、経済的な負担を少なくしたいところだが、完全無償で授業を受けられることは、まだ確立されていない。

もちろん、私が受験生の頃よりは、遥かに安い金額であり、授業を受けるために1時間以上並ばなければ前の席を確保できないような時間の無駄などなくなっている。そう考えると、当時、スマホなんてなかったから、寒い中でも猛暑でも、ひたすらにじっと列に並んでいる苦痛は何だったのだろうか。それが常識だったのだから、恐ろしい。無表情に列に並びつつ、心の中では鬱屈とした気持ち。家に帰れば、太宰治の「あの写真」のように、机に肘をついて「受験失格」か「走れ!自分」のようなことで葛藤していた。センチメンタルに『斜陽』を読むべきか、いじめられた過去を癒すために『よだかの星』を読むべきか、深夜の月夜の灯に、フーッとタバコの煙を燻らせていた。

今は、健全なノンスモーカーになり、一緒に川にポシャンと入ってくれる女性を捜すこともなく、リンゴを食べる前に列車のことを想像することもない。とりあえず今現在、浪人生の頃から引きずっている不眠症以外は、寛解状態。もちろん、いつ、瀧に呑み込まれるような鬱のどん底に叩きつけられるかは、不明。さらに、浪人生の頃に散々痛めつけたカラダのツケが、この歳になって爆発して起き上がれなくなるかもしれぬ。「健康は、富よりも勝る」などという比較表現は、入試英語の定番でもあるし、ビジネスユーチューバーも、健康に関しては、非常にうるさく述べている。生産性を高めるための早起き。夜更かしをしても「朝」の生産性より著しく劣るのだから、さっさと見切りをつけて眠るべきだという動画も、散々視かける。私も、十分納得できる科学的根拠に基づいた、正確なデータを伴う生産性アップの「朝活」だが、そこに「物事に対する心持ち」が計算されているかは疑問。太宰治が、早起きラジオ体操をして、生産性アップのエクセルを弾いていたわけでもなければ、宮沢賢治が、食生活に気をつけて、オメガスリーとか、タンパク質何グラム、たまには動物性タンパク質も摂取しようと言って、献立を考えながら偉大な作品を創作し続けたわけではない。そもそも彼は、ビーガンでガリガリだったわけで、科学の先生で、その栄養の有効性を熟知していたとしても、その栄養素を摂取しなかったのは確実。自分が、肺病で瀕死の状態で、弟が鯉の肝が肺病に効くと言って、こっそりと賢治の吸い物に混ぜても、泣きながらそれを飲むことを拒否したような人だから。

では、現代人が必死になって追い求めている「生産性」であるが、一概に効率よく、テキパキと物事を処理することだけが良しとされるべきなのだろうか。9時5時で閉まってしまう美術館がほとんどだが、夕方から夜にかけて「感性」が高まる状態である人のゴールデンタイムは、やはり「夜」ということになる。確実に言えることは、人間の感情というのは、波があり、それは季節や時間、体調などの周りを取り巻く全ての環境によって変化するのであり、自分自身でもよく分からないアートの世界を表現するためには、多少の時間のズレは、むしろ積極的に体験してみるべきなのかもしれない。私も、驚くほど睡眠時間がなくても、膨大な文章や絵を量産していた時期もあれば、指先一つ動かせない時期もあった。一時期ほど激しくないとはいえ、今もその傾向は、しっかりと続いている。ただ、その時々に作成した自分のアートは、振り返ってみると、何かの波長を含有しているものであり、ただただ生産性を追い求めるような単調な日々の流れからは、決して産まれない化身たちだ。

季節的に、日照時間が少ない。私にとってかなり辛い時期だ。ただ、今年の冬はいつもと一味違う点があり、それは、自分の中だけで仕上がる文章を書いているばかりではなく、このようにインターネット上で、誰かが読んでくれているという事実に支えられているという安心感がある。これは、今の自分にとって、変えがたい基盤だ。読者の方々に、心から感謝したい。

-思考力