思考力

財布の穴から最愛の人を見る

 

今日の東京のコロナの新規感染者数は、新たに「253人」。この表現自体が、なかなか微妙である。この数字が、全体の数字と比較して減少したと言いたいのか、自民党総選の中で影になっていた「緑のタヌキ熟女」が報告。この数字の減少が、この連休中の実際の病院での検査数が分母になっているのだとしたら、両手離しで喜べる状況でもない。豪快にものを言い放つ「あっそう」大臣も、医者の言うことがコロコロ変わって、手の打ちようがないと暴露。ここまで、あっさりと言い切ってしまうのであれば、政治家の二枚舌のコロコロ変わる様子も一刀両断してもらいたいものだ。

そんなコロナ禍であっても、世界的なレベルでの争いも起こっていて、アメリカとイギリスとオーストラリアが、潜水艦の共同開発を破棄することに対して、「おフランス」が激怒。漢字では「仏」と書くのだから、少々気性が荒すぎるのではないかというほどの「お仏ランス」のお偉いさんの会見であった。カナダでは、3期連続で首相が続投することになり、こんなご時世に、どこぞの国がばら撒いた、見えざる「コロ助」の中、世界が大きく動いている。ただ、このような世界的な動きがトップニュースになってきているということは、すでに、コロ助問題そのものが薄らいでいるわけである。

今が、緊急事態宣言なのかもわからぬほど、のどかな外房の中で私ができることといえば、車の中で「ステイインザカー」をして、鼻くそをホジホジしながら、じっとしていることくらいしかできない。と言いつつ、今日は寝ずに波乗りに行ったところ、コロナで公営の駐車場が封鎖されている中、駐車場のある千葉北のポイントをチェックしたのだが、低気圧の影響で、とても人間が入れる海ではなかった。こういう時に、1人で行動していることに感謝するばかりであり、仮に、連れがいようものなら、テンションが低いことをひた隠しにしつつ、南か北へ車を走らせなければならない。海まで車で30分程度のところに住んでいる私は、あっさりと問答無用で帰宅する。

「30分程度」と聞くと、何やら遠く感じるかもしれないが、一直線の道の田園風景を眺めながら、鼻をホジホジして考え事をしていれば、瞬く間に帰宅できる。格安SIMなので、コンビニのWi-Fiを借りてシートを倒せば、即席のインターネットカフェの完成である。スーパーの2リットルの天然水を、助手席の足元に転がしてあるので、”REST ROOM”完備の無料の空間の完成だ。かなりのグレーゾーンではある。いや、ブラックか。ただ、ストレス社会の中で、あまりにも考えなくていいことを思い悩んでいた東京での生活と比較すると、明らかに自分自身の性格そのものが明るくなっていることに気づく。そして、そのような毎日を過ごせる時間に感謝している。

千葉に来て、苦しかったことの割合を考えないようにしている。なぜなら、そんなパーセンテージに縛られていたら、1日の気分の上がり下がりで比率が変化し、大切な毎日が台無しになってしまいそうだから。今は、5分で寝れるというタイトルのヒーリング曲を聴いたところで全く眠気が来ず、ひたすらハッピーな日々に浸っている。コロナ禍と言えど、明るい側面に目を向ける努力をしていれば、それは、「努力が努力でなくなる日々」へと変化し、日常の中に溶け込むのだ。そのようないい流れの中で、このブログの毎日更新が続いている。逆に考えると、このように、日々の自分の考えをまとめている毎日の中で、自分の心境の変化と、世界的な変化を退避させられているわけだから、心の浮き沈みも俯瞰してみられるのだろうと思う。

朝の”Jazz and Bossanova”とコーヒー。これプラスアルファの毎日に浸っていると、これ以上何を望めばいいのか分からぬほどのハッピーな気分になる。もちろん、経済的な不安はハンパではない。でも、そこをあえて見ない努力をしていれば、それだって煙の如く消えてくれるのではないだろうか。心配事の8割は実際に起こらず、残りの15%程度は対処できる。これは、スピリチュアルな世界の話ではなく、科学的根拠に基づいた、長年のデータの結果である。マスコミの不安を煽るような曖昧な報道データとは訳が違う。

何をしに千葉へ来たのか。今、経済的に大ピンチである。この原因は、自分の実力不足のせいなのか。いや、このような窮地に立たされていても、そこの穴から光を見出そうという努力をし、それを楽しめるくらいの心の余裕がある。これは、楽観的になるのとは少しニュアンスが違い、私の生きる術が、巧みになったと言うべきだ。潮干狩りができるくらい潮が引いてしまったとしても、テトラポットによじ登って釣り糸を垂らせば、高級魚がかかることだってある。

今は、コロナでどこもかしこも駐車場が封鎖されていたとしても、どこかで自分の気持ちを解放させられる場所があるはず。それは、物理的空間だけではなく、見えざる精神的な拠り所と言ってもいい。例えば、今担当している受験生のオンラインの授業に最大限の注力をすることにだって、大きな喜びを得られるし、今、私の生活の困窮状態を援助してくれている市の職員の方だっている。もちろん、おんぶに抱っこではない。母は、もういない。ただ、母親に甘え続けていた自分に与えられた最高の愛情を受けた自分は、現在、最高のパフォーマンスを発揮できている。

自分の生き方はOKなのかどうか。聞き返していいのは何回までなのか。話して欲しかった事と、聴いて欲しかった事。今は、時計を見なくてもいいのかどうか。でも、そんな疑問に答えてくれない。でも大丈夫。どこかで書いたことなのだが、もう一度。お母さん、産んでくれてありがとう。

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