思考力

視える共生

テレビをつけると、何やら大ごとになっていた。全部のチャンネルが同じく焼けた街を映していた。これはただ事ではない。恐るべき映像。高速道路らしき「物体」が、熱で溶けてしまったかのように崩れていた。炎が街を支配していた。何のことだか分からないにしろ、やはりただ事ではない。目を覆い尽くさんばかりの驚愕の状態。どのチャンネルでもテレビの画像は変わらなかった。高校へ登校する前の時間の悲惨な画像だった。阪神・淡路大震災。

日本は、地震が多い国。天災を避けることなどできない人間が、環境を破壊し続け、ひとたび地震が発生すると、人間が作り出した物体が、簡単に崩れ落ちてしまう。その揺れが大きければ大きいほど、人間が自然に手を加えて作り出した物体が、物理的に壊れる可能性は大きくなる。抑え切れるはずもない自然の力によって、人間自ら作り上げた物体そのものが、他ならぬ人間自身を脅威と失望、やがて底無しの絶望の中に沈ませてしうう。“earthquake”.地球が揺れる。球体の物体の表面にある物質も揺れる。その頼りない物体に囲まれている環境のもとで、人間は生活している。

阪神・淡路大震災から26年。恐怖のどん底に叩き落とされた絶望と心的外傷を抱えた遺族などが黙祷。犠牲者を慎む。一体、どれほどの苦しみだったのだろう。地震発生地域から、物理的・直接的な被害がなかった場所から「がんばれ神戸」というエールが、「がんばろう神戸」にするべきだという動きがあった。一丸となって乗り越えようという意識を高める声の共生であった。

今、目に見えないウィルスとの戦いの渦中にいる。内側から身も心も引っ張り出されるような感覚。世界中が、恐怖に陥っている。他人事ではない、傍観できる状況ではない。世界は、自分と全てに対して「がんばろうみんな」と声を掛け合わなければならないところだが、政府の動き、そしてその動きに対しての国民の怒りは、完全に正面からぶつかり合っている。ここまでくると、誰を責めていいのか分からず、「自己責任」と言われようものなら、いきなり責任は「自分」になっていたりする。世界中でも、小競り合いが絶えない。もちろん「小競り合い」などではない「大暴動」寸前の状態。ロックダウンなどは、その際たるもの。つまり、自国の被害の鎮静化と責任の矛先を避けるためには、外部からの侵入を完全に遮断するしかないのだ。私は、これが最善の行為だと考える。可視化できないウィルスに対して、可視化できる防衛策を進めていかなければ、事態は絶対に好転しない。

 

万が一、今、このコロナ禍で、天災がきて、物理的に人が作った物体が倒壊でもしたら、目に視える物も視えない物も、容赦無く人間を急襲することは不可避。これ以上の惨事を拡大させないためには、再度「がんばろう世界」のような、危機をシェアし改善することを考えなければ。すぐに解決できない問題ではあるが、早急に打開しなければならないという逆説的な問題。今、目を閉じて考えても、やはりすぐに解決案を見出せない。今日は、静かに目を閉じて、阪神・淡路大震災の犠牲者を慎む「黙祷」をしよう。

-思考力