思考力

美しく光る汚い鞄

一致団結するためには、どれほどの人数が最適なのだろうか。昨日は、期待していた自助グループの2回目のミーティングであった。すると、前回とは打って変わって、今回は2倍以上の数のメンバーが参加していた。リーダー曰く、この会場でミーティングをするにあたって、始まって以来の人数だという。内向的な自分ということを差っ引いて、ここまでの人数となると、普通の人でも身構えてしまうのではないだろうかと不安になっていた。

グループというのは、ある程度の規模の人数が集まったら、一度、その門戸を閉めるべきであると私は考えている。ウィスキーを考えてもらえれば、とても分かり易い。上質なウィスキーであれ、大量の水で割ってしまえば、味は薄くなり、さらに水を加えるほどに限りなく濃度が下がってしまう。昨日のミーティングは、もちろん為になる会合ではありつつも、前回ほどの濃さはなかったように思う。ただ、これからもずっとお付き合いをすることになるであろう団体。あまり大きなことは言えない。

さて、話をずらしてみよう。会場では、私の持っている鞄がカッコイイと評判であった。遠くから見ると、ある程度の年季が入った鞄だが、実際に近くで視ると、ボロボロに縫い合わせてあり、キャンバス地の部分は、白から灰色、さらに黒ずんでいる部分もあり。もっと変色して、全体的には黄ばんでいる。もう何度もリペアに出しているから、もはや視る人から視たら、雑巾を貼り合わせたフクロにしか視えないのかも知れない。かつて、親しくなった女性に、「汚いから、もう買い換えなさい」と言われたこともある。もちろん、ここまで汚れているので、プライベートでしか使わない鞄だ。

私は、人間の魅力も同じだと考えている。何度も何度も繰り返し踏まれ続け、やがて泥に埋もれるような経験や、傷だらけの体を癒した経験というものも、あえて口に出さずとも、雰囲気として滲み出てくるものである。そして、その語らずともわかる魅力というものに、ある人は強い魅力を感じ、その美しさに感嘆するのだ。そして、そこに共鳴することで、自分のかつての苦しみとのつながりが見え、急速に仲間意識が強くなる。

人間として誇るべき存在が息づいているところ。それは、同じ時間を共有する中で、同じような体験に苦しめられ、その苦しみに、同じ美しさまで感じられる人同士の共鳴である。昨日の会合が、私にとってイマイチだったところは、やはり、多くの人数に押されるように、同じ経験を深く語る余裕がなかったというところだ。みんな素晴らしい人たちばかり。それは、同じ境遇に苦しんでいるから。そして、多少の違和感があっても、グループの中の輪を崩せない雰囲気があるからこそ。だから、2回目の参加の私には、多少のバリアが張られていても仕方がなかったのかも知れない。通うことが必要なのだ。たとえ浮いてしまったとしても。

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