思考力

田んぼ道の不届き者

朝っぱらから、あまりよろしいことではないが、昨日のあまりにも理不尽な出来事が起こったことから話を進めようと思う。車を売却したので、移動は自転車となるのだが、スーパーへ行くまでの田んぼの道は、軽自動車が一台ギリギリで通れる幅なのだ。対向車が来たらその道は塞がれてしまうトラブルの要因になるであろう道。そんな道を、自転車で通っていたら、後ろから軽自動車らしき車が、追走してきた。そもそも道を譲ろうにも、道幅が無いので譲れない。そこで、十字路になっているところで自転車を停めたのだ。

すると、追い越しぎわに、思いっきりクラクションを鳴らされたのである。一体どんな顔をしている奴なのかと思えば、爺さんが運転していて、こちらを睨みつけているではないか。仮に、車から降りてこようものなら、いくら気の小さい私であれ、鉄拳の一撃でも喰らわせたいものだったが、エンジンがついていない自転車が追いつけるわけもなく、そのまま軽自動車の爺さんは、走り去って行った。

そもそも、自転車というのは、歩行者の次に優先されるべきであり、道路の左側を走る権利がある。そして、色々と調べれば、道路交通法では、後ろからのクラクションというのは、極論すると全て「無視」で問題ないということが分かった。未だに腹の虫が治らない。できるはずもないのだが、あのとき一喝して、車から引きずり下ろし、田んぼに蹴り落とせばよかったなどとシミュレーションしてしまう。とはいえ、睨み返すことしかできなかった自分の気の小ささに情けなさしか感じられない。それが、ますます腹立たしさを募らせる。

ただ、これで経験値は溜まった。何の経験値かと言えば、話のネタである。例えば、誰かが理不尽なことをされたという悩みを受けられたときに、実は自分も、田んぼのど真ん中で〜なんていう会話で、場を和ませられるかもしれないし、次に後ろからクラクションを鳴らされたら、道路交通法のお説教を、相手方に教え諭すこともできるかもしれない。ただ、前者に関しては、悩み事を打ち明けられたときの基本は、聞き役に回らなければならないということと、後者に関しては、クラクションを鳴らすような短気者に説教をできる肝っ玉がない私が、再び露呈されてしまうかもしれない。

最終的に、このような場合は、もっと理不尽なことをされた人を考えるようにしている。あまり良いことではないとは思うが、それが自分への慰めになるのであれば、それはそれで多めに見てもらおう。例えば、電車内で痴漢行為に遭った女性。100%加害者が悪いのであるが、見ず知らずの男性への恐怖と冤罪の可能性から、何も言えず、そのことが一生の消えない傷となって遺ってしまうこともあり得る。コレに比べれば、私が田んぼ道で、爺さんに非合法なクラクションを鳴らされ続けたことなど、蚊に刺されたようなもの。入試問題で言えば、消去法よりもっと前の状態の的中法で、スルーすること一択となるのも当然だ。

確かに、このクラクションの件で、過去の嫌なトラウマまでもが蘇ってきたのは事実ではある。しかしながら、自分の体験談を得ることができたということや、自分より遥かに苦しい思いを抱えざるを得なくなった人たちの苦しみを考える良い機会になった。ただ、今日もその道を通って食材を買いに行くときに、多少のトラウマが顔を出すことだけは必然と言える。まぁ、それくらいのストレスは受け流してあげようではないか。

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