思考力

片足のイルカ

 

オリンピックサーフィン無観客試合。村おこしを見越して準備していた地元の住民にとっては、たまったものではない。飲食店や民泊業、サーフショップなどももちろん含め、オリンピックにサーフィンが新種目として加わり、会場が自分たちの住む場所になったというのに、期待していたオリンピック効果などほとんど発揮されなかったのだから、そのショックは非常に強いものだった。それこそ、昨日、サーフィンに行って入った海は、オリンピックサーフィン会場の釣ヶ崎海岸付近だったので、その土地の静けさが、どれほどオリンピック効果がなかったのかを理解できてしまった。

期待していたサーフィンの村おこし計画が成功していたのであれば、この地域で働く人たちの収入は確実に増えていたわけで、コロナなど発生しなければ、村全体が活性化していたのは、間違いなかったのだ。昨日は、いつものポイントで入水予定で車を向かわせたのだが、コロナの感染拡大の影響のため、駐車場すら閉鎖されて入れずにいた。だから、わざわざ南下し、コインパーキングに駐車料金を支払って、車からテクテク歩いてのサーフィンとなった。まぁ、そのようなことで、県外から来る車から、駐車料金程度のお金は、落としてもらわなければ、ほんの微々たる収入とはいえ、赤字の採算は合わないとも言える。

ただ、このオリンピック効果なのかは分からないが、カムバックサーファーともいうべき、私くらいの世代のサーファーたちが、子供が大きくなったことも相まって、サーフィンを再開するような現象も起こっているみたいだ。ただ、当時は、バリバリの短い板を乗り回していた人であれ、長い間、サーフィンから離れていて、容易に昔の感覚が取り戻せるはずもなく、お腹が張ったピチピチのウェットスーツを身にまとい、長くて安定した板に乗って、ゼーゼー言いながら沖へ向かっている光景も目にする。老いとの闘いや、健康への意識を高めるには、とてもいいことなのかもしれない。ただ、こちらが技をかけようとしたときに、ゼーゼー言いながらラインに入ってゴキブリのように板に這いつくばっていられると、こちらも大変迷惑なので、ある程度の体力をつけてから入水をお願いしたい。

私は、自分と同じ世代の中では、とりあえず一歩か二歩程度は先にいる。ただ、私とて自分の体力が落ちているのも事実で、波が大きくなれば、ゼーゼー言いながら沖へ向かうことだって多い。それでは、自分の乗っている板が長いモノかといえば、それは違っていて、私の板の長さは、短い。それを補う為に、足ヒレを履いて正座の状態で波に乗る「ニーボード」という乗り方で板に乗って波の上を滑走している。この聞き慣れないニーボードというのは、私が波乗りを始める前には、全日本の大会の種目にも正式に存在していた波乗り分野なのだが、愛好者が減るにつれて、いまでは「絶滅危惧種」のサーフィン分野となってしまったのだ。

ただ、ここで考えてもらいたいことがある。抜きん出て、秀でた存在になる為には、やはり人と違う「ブルーオーシャン」で活躍ことを考えなければならない。自分と同じ世代の人たちが、長い板で苦戦しているとして、その長い板で抜きん出たとしても、その分野は、流行っていればいるほど、「レッドオーシャン」として、すでに多くのサーファーが軒を連ねているわけであり、そこでは、なかなか目立った存在にはなれない。では、もはや絶滅危惧種となった乗り方でサーフィンをやり、海の中で目立つことができれば、そこは、まさにブルーオーシャンが広がっている。

最近では、ニーボードの実力も十分に上がり、足ヒレをつけたまま、ニーボードの上に立つという離れ技をマスターしている。成功率も、まずまず。でも、これを極めていくことができるのであれば、誰も乗っていない未知の乗り方だって、存在するはず。だから、リサイクルショップで2,000円もしないショートボードを買い、足ヒレを着けて乗ってみたが、流石に沈みゆく板に立って乗ることは困難だった。

しかし、ここで考えを煮詰めてみる。足ヒレを履いて、ショートボードに乗れたとしたら、完全なるブルーオーシャンであり、波乗りの世界では、第一人者となれる。だって、誰もやっていないのだから。ニーボードで立ち、そこから技をかけられる私が、足ヒレを有効活用してショートボードに乗れれば、とんでもない数の波を掴み取り、技をビシバシと決まられる。その為には、板にスタンドアップする時に、どうしても送り出す前足の足ヒレが引っかかってしまうことを回避しなければならない。そして、昨日に照準を合わせ、ある試みを決行し、見事に成功のチャンスを見出せた。

足ヒレを出す前足が引っかかるのであれば、前足の足ヒレをつけなければ良い。ただそれだけの話ではなかろうか。もちろん、両足に足ヒレをつけていれば、それだけ推進力は上がるわけだが、それができないのなら、そのできない部分をアイディアで補うことはできる。そして、ニーボードで効率的にキックする足の動きを、片足だけに任せ、板に乗るときは、足ヒレのない前足を抱え込むようにして立つことができた。コレを数回繰り返し、まさに、オリンピック選手が乗るような、ツマヨウジのようなペラペラの板の上で、スイスイと浮遊できたのだ。こんなことは、20代だった頃のバリバリにサーフィンの体力があったとき以来のことであった。

板は、短くて細ければ、それだけクイックに反応する。オリンピック選手が乗っているボードが、長くて分厚いことがないことからも分かる通り、本当に上手く波を乗りこなす為には、板は、ツマヨウジに近づいてくる。仮に、この片足足ヒレの乗り方で、上級者タイプの板で波を乗りこなせたとしたら、私の今まで培ったニーボードの努力まで、大きく報われることになろう。こんな中年が、20代の若者達と同じようなボードで技を決められるのであれば、その魅力は半端ではない。やはり、コレは完全なる【ブルーオーシャン】。エジソンがランプを開発したという程の革新ではないものの、このような新しい発見ができるのは、自分が常にエキセントリックなことをしたいという気持ちが前に出ているからだ。

多くの人たちは、固定化された概念に縛られ、既存の範囲の中から抜け出せないまま、その分野そのものに飽きがきて、やがて去っていってしまう。これは、もちろんサーフィンに限った話ではない。多くの人が目指している「自由」な生活を、不自由で多忙な生活の中で手に入れることは、なかなかできない。ギュウギュウ詰のスケジュールの中で、その先に「自由」が待っているとは、限らないし、最近の私から見れば、本当に「自由」になりたいのであれば、まず自由という状態を十分に享受しつつ、どのようにこの状態を維持できるのかということを、常に考えていなければならないのではないだろうか。若いエネルギーが、すでに燃え尽きているのであれば、それを取り戻す工夫を。若いエネルギーを、すでに経験しているのだから、それを有効活用すること。そうやって、自分の意識と行動を、常に前へ前へ進ませるということは、どんな人間にだってできる。

いくつになっても人は成長できる。そんな言葉は、どこかで聞いた覚えがある人も多いはず。ただ、それを継続することを、自ら工夫することもしないで、ただのキレイゴトとして認識するだけで終始し、成長した人を、羨望の眼差しでいることは愚かなことだ。自分にしかできないことというのを、誰だってポテンシャルとして、自分の内面のどこかに秘めている。それすら信じられなくなっているのであれば、その人の成長は、そこで止まってしまう。

自転車を漕ぐ時であっても、初速をつけるためのイニシャルパワーに、一番強い負荷がかかる。そして、何度も立ち止まり、そのことに辛さしか感じられなくなってしまうのであれば、やがて漕ぐこと自体を嫌悪し、進むことそのものに嫌気がさしてしまう。たとえ、立ち止まることが多くて、砂に埋もれたとしても、進むことに意味を見出せる。そのような人は、やがて自分の中にある可能性が開花し、自分の心の中で描いていた「ブルーオーシャン」の中で、可憐に泳ぐことができる。

少なくとも、私は自分の人生の中で大切にしなければならない考え方は、自らの人生の歩を進め続けていく最終地点で辿り着くブルーオーシャンの中で、さらに、そこでの泳力を極め続けることだと信じている。

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