思考力

教育という生き物

 

母が他界したあたりから、やはり何やら自分の活動が、やけに活発になってきている。自覚症状がないまま、睡眠時間が極端に減ってもバリバリ活動し始めたとしたら、確実に取り返しのつかないことになる。だから、キチンと服薬するということを前提に、こうやって毎日ブログを綴るというのは、自分の気分の波を知るには、とても良いことだ。波乗りをしても、なかなか眠気がこないが、そこから7時間程度は眠れているので、薬の効果が出ているのだろう。優秀なビジネスパーソンのように、早起きで自分の行動を調節するなど、眠り薬を飲んでも寝付きが悪い私には、まず無理だ。

私が、不眠症に陥ったのは、最初で言えば「一浪」の頃。常に、胃の上のあたりに痛みがあり、十二指腸に小さな潰瘍もあった。そんなストレスまみれの状態で飲んだ「青い錠剤」の即効性には驚いた。飲んで目が覚めたと思ったら、朝日が光り輝いていたのだから。夢を見る暇もないほど、自然で深い睡眠だった。しかしながら、当時の私は、まさか、こんな中年になっても、同じような薬か、それよりもっと強力な「ソレ」を常用することになるとは、全く思いもしなかった。ただ、そんなに辛い受験生という立場で出会った、尊敬する予備校講師陣に憧れ、それが自分の生業になるであろうことは、少しだけ予感はしていた。

私の市が主催する集団健康診断の結果が、今頃というか、忘れた頃に却ってきた。体重関係以外は、全て「良好」。体重「以外」は。48時間しゃぶしゃぶダイエットなる儀式を開催したのは良いが、どんどん時間の感覚が狭くなり、ストレスでコンビニにレッツゴーの日も続いている。サーフィン後の「アイス」など、誰が止められるだろうか。いや、さすがに止めなければ、体重の十の位が1つ上へ行ってしまう。精神的に安定し、波乗りに対しての荒ぶる魂も持ち合わせてはいるものの、ウェットスーツから出ている下っ腹は、さすがに見るに耐えない。アイスでリラックスするのではなく、減量した体重計の数字でリラックスしたいものだ。

最近、発達した台風が温帯低気圧に変わり、今日は波を求めて北上した。普段は、オリンピック会場のある南へと車を走らせるのだが、こんなチャンスの時には、うねりの向きを考えて、ケースバイケースで動く。これこそ千葉のメリットだ。でも、私は、ポイントを慎重に選ぶことなく、波が割れていれば、そのままウェットに着替えるタイプ。このようなタイプは、サーファーには珍しく、ほとんどのサーファーは、ポイントとポイントの間を行ったりきたりするもの。ただ、かつて一緒に行っていた人の中には、南房総まで南下して、結局、私が今日入水したポイントに北上して戻り、そこで入るドライブ目的ではないかと思うような人もいた。そういう人に合わせたくないから、一人のサーフィンは、とても気楽だ。

その今日入水したポイントというのは、都心からのアクセスが非常に良く、波のない日が、年間を通して数日しかないという奇跡的な場所。しかも、平日とはいえ、低気圧が近づいてくるこんな日には、混まないはずもない。非常にストレスフルなサーフィンだったし、後ろにいたサーファーに板をぶつけてしまい、申し訳なくて、そのまま上がってしまった。これから、夏空のもとで、どんなアクシデント物語が繰り広げられるのだろうか。ちなみに、私はかつて、このポイントのテトラポットに吸い込まれて、休止に一生を得たことがあるトラウマポイントでもある。やはり、当分、近づくのは止めよう。

それにしても、サーフィンの魅力は強く、それは私が東京にいた頃から、もちろん、初めて波乗りをした高校生の頃から分かっている。ただ、東京からやっとの思いで海に到着しても、波がない日もあれば、波があるから混雑している日もあり、波がないのに混雑している日もあった。つまり、何をやるにしても、東京から通うというのは、明らかに無理に等しいと私は思っている。かと言って、「あの」湘南で波乗り暮らしをしたいと思って、どこかのホームポイントを得たとしても、どんな日でもお祭り騒ぎで、一本の波に、長いのから短いのまで色とりどりのサーフボードが、一本の波と共にドカンと進んでくるわけだから、なかなか賢い波乗りライフともいえない。

そう考えると、私の千葉外房ライフは、正解だった。今のように、会社員でなければ、ほぼほぼ自分の好きな時間に仕事ができるわけで、今日で4日連続のサーフィン。ただ、老いには勝てず、若かりし頃から酷使した「膝」のヒアルロン酸の注射の日が、明日に迫っている。まぁ、月に一度のイベントだし、先ほどの健康診断の結果も診てもらえば、一石二鳥ともいえる。全てもリセットしたいという気持ちもあり、この家も引越すことにした。次は、ワンルームアパートだ。面白いブロガー兼YouTuberが、渋谷の6畳一間でひとり暮らしをしている動画があるのだが、あれを見れば、工夫次第で、いくらでも生活できる。

「広ければ良い」という発想そのものは、すでに「失われた30年」の時代に消し去るべきだった考え方であり、「買う」ことと「所有」することは、頭がどんどん悪くなるから、絶対やめなければならない。ただ、ひとつだけ譲れなかった点として、ドラム式洗濯機を置く場所を確保するということだった。しかし、排水溝の位置と洗面台の位置の関係から、私が毎回「ペラペラ」にならないと歯磨きができない配置となってしまった。ここを妥協点としたくはなかったので、思い切って、ドラム式洗濯機を部屋の中央に寄せるという暴挙で解決することとし、契約することにした。果たして、どういう生活になるのだろうか。少なくとも、家賃の何割かは、洗濯機に支払うことになる。

それほど便利な「ドラム式洗濯機」。どんなニュースでも「お洗濯情報」なんてコーナーがあるが、ドラム式を使っていないで洗濯しているなど、私から見れば、洗濯板で物を洗っているというレベル。はっきり言って「格」が違いすぎる。そして、私の継続してきた英語講師としての「格」も、客観的にみて上がっているようで、高時給の講師として、仕事の依頼が来るようにもなった。このまま、ずっと今のような自由な暮らしをしたい。

最後に、教育についての話でまとめよう。人を育てるのがうまい人と、そうではない人の違いというのは、様々である。決して一つに絞る事はできない。なぜなら、教え子自身の個々の目指す理想的な「自由な生き方」というのは、それぞれ異なるわけだから、画一的にひとつの教育というものは存在しない。仮に、私がカリスマ予備校講師だとしても、若くて茶目っ気のある講師と共に学んだ方が、遥かに有益な場合だってある。だから、教育にひとつの答えなどは存在せず、教育の在り方というのは、いつの時代でも非常に難しい。ただ、教育という「生き物」を、どのように手懐けていくのかを考えることも、また楽しいのだ。

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