思考力

扉の前の未練

今朝は、よく分からぬ心の状態だった。いつも通り、過去の憎しみに囚われたと思いきや、大学時代に楽しめなかった後悔、そんな苦しみを誰かと比較すれば、他界してしまった他ならぬ自分の母の方が、よっぽど過酷な人生を送っていたことを考えていた。そういえば、最近、心から何かを「楽しい」と思ったり、心の底から笑っていない。強いて、最近の熱中できることといえば、こうやって目覚めのコーヒーを飲みながら書く、ブログだったりする。

こんな気落ちした精神状態が自分だけかというと、差してそんなこともないようで、Twitterを開けば、自分と同じ障害を患っていたり、他にも難病を抱えている人だって多くいる。そんな人たちから、自分の呟きに反応があると、やはり嬉しいという気持ちになる。ただ、そのようにして自分を慰めるというのは、少し間違っているような気もする。あくまでも、自分の苦しみというのは、自分の経験や過去の傷を引きずっていることで生じているのであり、それを誰かと比較して何かを考え込むというのは、極論すればナンセンスだと思ってしまう。

今、書こうか迷ったことがあったが、あえて書いてみよう。今朝は、極めて浅い眠りの夢の中で、2回だけ肉体関係を持った人のことを思いながら起きた。彼女が、今、どうしているのかも知らないし、私のことなど記憶の中からスッポリと抜け落ちているに違いない。そもそも私の記憶からも、ほとんど抜け落ちていたのだから。当時、彼女は、自分の夢を叶えるために懸命だったのだが、果たして追いつかぬ目標は叶ったのだろうか。私のお節介と取り越し苦労の鐘が鳴る。実は、彼女の負った傷というか、ややアウトローな経験を知っているだけに、その過去と上手く折り合いをつけられているかが心配である。

私は、女性ではないので女性の絶頂の快感は、生涯理解できないはずだが、男性の迎える肉体的絶頂というのは、もちろん理解できる。出会い、話をし、理解をし、そこで身体を重ねつつ、静的絶頂を迎えるわけだが、その瞬き一瞬の絶頂には何も考えられない快感があるわけで、そのときに相手のことすら考えられないほどのエクスタシーを迎える。この時こそが、全ての悩みから解放される時なのかもしれない。肉体的な動きというのは、目に視えるものであるから、文字に起こせるが、感触や快感という世界は、どんなに頑張っても文字には起こせない。素人の大袈裟な解釈になってしまうが、そこに「芸術」や「哲学」という「神秘」があるのかもしれない・

このブログに、自分の過去のリアルな肉体的体験や「性」を書き記した事はなかった。果たして、自分がこれからも同じようなことを書くのだろうか。それならば、書くのではなく、文字を「描く」ことになる。それに耐えうることができる精神力はあるのか。やはり、自分はどの方面にいったところで、まだまだ未熟なのである。これは、肯定的な意味でのこと。境地には辿り着けぬとも、その入り口で悩むくらいの資格はあるのかもしれない。

-思考力