思考力

天然記念物の化石の方程式

完全に病院送りである。そう考えると「奴」は、スゴイ。また、「ヤツ」の思う壺にまんまとハマってしまっている。昨日書いたブログや、それ以前のブログ、果ては、このブログの読み上げのYouTubeの音声動画にもしばしば話を出している、私の授業を妨害し続けていた生徒。朝は、なんらかの恐怖心が自分を襲い、その原因が、その生徒であることに気づくのは、その20秒後。それが、一日中消えずに就寝時のギリギリまでアタマに居座ってしまう。ここまで感情を支配してくれるとは、敵ながらアッパレとでもいえるのかもしれない。

働きながら自分の労働環境の危険を感じ取り、自分の中で不具合を感じたのであれば、すぐさま辞表を提出する。これが、今の日本では、とてもカジュアルな働き方になりつつある。そもそも、「働き方改革」などというワードが生まれるということは、裏を返せば、今までの日本の働き方に相当な無理がかかっていたということであり、最終的に労働環境の中での理不尽な歪みが、社員同士の摩擦や会社組織の不当な上下関係を生み出したのである。今やコロナ禍で明るみになった、リモートワークで今までの仕事のほとんどができる事実。また、会社自体が「副業」を認めなければ、社員のリストラの絆創膏を用意できない状態。もう、大きな船の底に穴が開いて、ジワジワと水が染み込んでいる。

こうなってくれば、労働者側の脱出の切り札が容易に切りやすくなる。ただ、ここで問題が生じる分野の一つが「教育業界」。一度担当した生徒たちは、年度の終わりまで、責任を持って最後まで指導を続けなければならない。これは、至極当然のことである。ただ、私は若い頃に、その責任の過酷な重さから、年の途中で降板したこともある。そんな無責任なことをしていたことから、長続きした会社がほとんどなく、年齢を重ねる度に、面接の際に提出する履歴書の傷に塩を塗られることが多かった。

責任感に押し潰されるあまり、中途半端な義務感が生まれると、必ず心身に大きなダメージが生じる。その際たるケースが、冒頭の「奴」と出会うことになった塾。コイツのことを思い出すと、芋づる式に、このブラック企業での無慈悲な扱いも併せて思い出してしまうのだから、非常にタチが悪い。そこの塾では、もちろん完全燃焼して楽しい思い出もあるし、私の授業が、数人の生徒たちへの英語の関わり方、果ては人生にまで影響を与えることができた。それで引き算をして納得するのが、謙虚な人間としての行動なのだろうが、ここまでヒドイ心的外傷ストレスを感じてしまうと、早めに「切り札」を切っておくべきだったと後悔することも多い。

再度述べるが、「働き方改革」が行われたとしても、教育業界における教師の責任の度合いが軽くなるわけではない。他の業種の働き方が柔軟になった分だけ、働くステージの障壁が変わらない職種の厳しさは、全体的に強くなる。これは、「偏差値」の考え方と同じで、周りが臨機応変に問題に対応し、成績が上がっていくと、その場に取り残された者の成績が下がるという仕組みになっている。そのように考えると、私に対しての「奴」の態度が日増しに悪化していたというのは、自分の立場が危うくなることに危機感が増し、もう後戻りできないことを察知したということなのだろう。いや、きっとそうだ。

今までの立場が悪くなるということで、ずっと強く耐え忍んでいたこと。叩かれたくない。これは、精神的にも肉体的にも叩かれたくないという強い恐れから、自分の生きる上でのステージを死守するために生じる忍耐だ。それを「努力」というのであれば、自分のステージを守りつつ成功するためには、保守的な努力をしなければならないということになるのかもしれない。この考え方というのは、成功は「保守的な努力」を基に成り立っているという公式に当てはまる。では、その「努力」が、単なる思い込みの幻想であるとしたら、自分の目指す成功のベクトルに必ずしもつながるというわけではない。

成功は、自分が「自由」であるという受け皿の上に存在しているのであれば、そこには周囲を取り巻く「バカ」を容赦無く切り捨てる「努力」が必要となってくる。また、自分でやれない範疇の物事を捨てることが成功につながるという前提であれば、「ゴミ人間」と判断する自分のモノサシを研ぎ澄ませておく「努力」が必要だ。人は、道徳的な観点から、自分の本心を隠し、バッシングされぬように残酷な世界を見ないよう努める。ただ、そのような状態でい続けるのであれば、他人に常に振り回されていることと同じであり、自分に対するイライラまで生じることだってある。「アドラー心理学」の一番の主張である「すべての悩みは人間関係で生まれる」という法則にピタリと収まる。

過去の価値観が一気に覆されている。インフラひとつとっても、車が自動運転になり、車が空を飛び、車を所有することそのものが不要となる。このような時代が、あと10年もしないうちに到来する。これを、戯言だと思っているのであれば、早急に自分の「価値観改革」が必要だ。時代が変化すれば、その時代の波に逆行することは困難であり、もし抗おうとするのであれば、自分の生活のクオリティーは一気に下がってしまう。このブログでよく論じることであるが、再度、主張させていただく。今、急速に変化している環境に対応しないというならば、これから先の時代では、今の時代でいうなら、20年以上前の箱型のパソコンを背負って、テレビと固定電話を持ち歩いている状態になる。

そんな「天然記念物」だとか「化石」だと言われる人が、これからの時代では、「愉快な奴」と称賛されるようになるかもしれないので、希少性を求めるのであれば、変化しないという選択肢もある。今の時代は、個人で生きていく時代へ向けての過渡期。ここで大きく出遅れることは、非常に危険だ。少なくとも、私の考えの中では変化することに「ゴーサイン」が出ている。へんてこりんな「個人」が、「天下無双」の称号を手に入れられる時代。固定された概念が崩壊している。個人で戦うためには、マイペースを邪魔されず、バカは見下していくことが勝ちへの方程式。つまり、この「公式」は、「見下す」がキーワードになりそうだ。

Cropped shot of a group of unrecognizable businesspeople showing thumbs up in an office

アメリカでは、多くの人が“FIRE”に向けて仕事をしている。そして、この「経済的自由」を達成するために必要なことは、いかに自分の支出と生活費を下げ、いかに最短でお金のサイクルを「収入>生活費」という公式に当てはめられるかだ。こうなってくると、不要な人間関係で、訳の分からぬ余計な情けをかけたり、理不尽な攻撃をかわしたりすることが、いかに無駄なことかがわかる。

Silhouette of detective investigate is following footprints. Vector illustration

今日は、金曜日。こうやってお昼に起きて、コーヒーを飲んでジャズインストラメンタルを聞きながらブログを書く。目覚めは「奴」に邪魔されていても、書けばそれなりに思考がまとまる。これから車の整備と修理。水没してお別れになった車との思い出を心にしまって、今の愛車とは一年半のお付き合いとなった。水没お見舞い保険金40万の予算の中で、ギリッギリで買った今の愛車。部品を取り寄せて意地でも長い付き合いをする。やがて、ビンテージカーとして高値が付くかもしれない。いや、高値が付く前に、車が空を飛んでいる時代が来ているだろう。それまでは、いやでも付き合ってもらう。

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