思考力

口をついてでる言霊

本当によく分からないのであるが、いつでも独り言で口をついて出てしまう言葉がある。「佐藤先生の授業を受けたい」「佐藤先生の授業は良い」「佐藤先生の授業を受けたいのであれば」という言葉。承認欲求が溢れているのか、どうしてもこの言葉を頭の中で反芻させている。実際に、現場に出ているときに、このような言葉を耳にすることは、講師冥利に尽きるとはいえる。しかしながら、現場から遠ざかったというのに、少しでも空白の時間ができると、ついついボソッとこのナルシスト的言葉を言ってしまっている。もはや、一種の呪文のようなものであるかのように。

うつ病の人などというのは、ネガティブな言葉とため息の連続である。私自身が重度のうつ病から生還したので、それはたやすく理解できる。やはり、自分の心の中で何かを承認してもらいたいという気持ちが、身体の外へと吐き出されるのであろう。ただ、その回数と頻度は、おそらく病的であり、どうしても鼻の頭がかゆくなって、ポリポリといつの間にか掻いているような状態だ。とにかく無意識の部分で言っているので、この心の声を掻き消すのは、おそらく無理であろう。

人は、必ず何かに依存していきている。例えば、ドラッグだったり、過食であったり、ギャンブルであったり、買い物であったり、はたまた本人にとっては地獄なのかも知ればいチョコレートであったり。それが日常生活で支障をきたすというならば、それは早いとこと、それなりの対策を打たなければならない。それでなければ、無意識のうちに重度の嗜癖という泥沼へとはまり込んでしまう。だから、意識的におこなっている軽い習慣的な状態であれば、回復の見込みは早い。

ただ、問題をすり替えて考えたときに、何かにハマってしまうということは、甘えなのであろうか。その人の意思が弱いからなのであろうか。承認欲求が強いということは、自分のことをいたわっていないから出てきてしまう情けない心持ちだからであろうか。決してそんなことはない。むしろその逆である。どうしてもやめられないということは、それだけ意思が強いことである。雨にも風にも雪にも負けず、殊更に、その対象を追いかけ回すことができる集中力があるから、依存という形で現れてしまう。

例えば、タバコに依存する人は、ここまで禁煙の流れが浸透しつつあるときに、お金を払って、どんな天候の時であれ、タバコを買いに行くのであるから、こんなに意思が強いことはない。このような観点で考えると、依存症というのは、考えようによっては、一種の意思の硬さでもある。決して意思が弱いという考え方では終わらせることはできない。ある対象に対して、やめられないほど強い意思があるのであれば、今度は、やめる意志を持つことが、なかなか難しくなってしまうこともある。ただ単に、意思の強さのベクトルの向きを正反対にするだけで済む問題ではない。いや、方向を180度変えるというのは、一番勇気と忍耐が必要なことでもある。

今、現状で私を結構な状態で足をひっぱている自分に対してのプラスの言霊の反芻。まるで呪文のように唱えている。日常生活で多少のことイラッとくることもあるが、気長に落ちつくのを待とう。この口癖問題は、180度向きを変えて取り組間なければならないほど重要度は少ない問題だ。自分自身の中で、もっと解決しなければならない嗜癖があり、それを今集中して変革していかなければならない。その問題を、集中して変革させていきたい。だから、今の「佐藤先生は分かりやすい授業をしてくれている」という口癖は、多少障壁になるとはいえ、良い口癖であると考え続けようではないか。

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