思考力

割れるチューブから噴き出るパワーを体感できるか

「論理」という言葉を耳にすることが多い昨今、この本質を理解している人は、なかなかいないような気もする。私の師は、担当科目が現代文ということもあり、自分の教え子には、言葉の大切さを常に考えるよう伝え続けていた。師からは、書くことと読むことには、常に強い責任感が伴われていなければならず、私自身、言葉を大切にしなければならないという意識を、常にキープしなければならないという責任感が芽生えた。もちろん、その教えは今でも胸に秘めているし、今書いているBlog記事であっても、自己と他者の間に負のスパイラルを生じさせないよう最新の注意を注いでいる。

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師は、授業中に「論理」を最優先にする方だった。筆者の考えを受け容れるために必要不可欠なことは、論理的に物事を判断することだと言う。そして、全ての講座の最初の授業では「論理」についての解説をする。論理の「論」は、言葉を集めてまとめるという会意文字であると言うこと、論理の「理」は、真理の理であり言葉を分けること。「論理」とは、その二つを組み合わせてできた単語であると教わった。そして、師は、黒板を上下に分けて色分けをして「二項対立」を明確に可視化して、分かりやすく授業を進めていく。そして、受験勉強という枠に囚われてはいけない「真の学問」の入り口にいるという意識を、受験生の時に考えておくことの大切さを常に受験生に教授していた。そして、打算的な小手先の受験テクニックを強く批判していた。私の「思考力養成予備校」設立の目標である脱偏差値教育の考え方を再考してみると、師の教えがそのまま受け継がれていることに気づく。

師は、決して雑談ではないのだけれど、授業中で常に現代社会の諸問題や、生き方、教訓などの様々な問いかけを、私たちが考えるきっかけとして与えていた。私は、師の授業に完全に魅了され、師の母校と同じ大学を志望し、2年間浪人した。私は、受験を超越した勉強がしたくてたまらなかった。授業が終わると、一駅ほど明治神宮を歩き、休憩所で熱いお茶が完全に冷え切るまで師が授業で伝えようとしていた真意を考え、師が語ることの何か一つでもいいから実践して生きていきたいと心から思っていた。それまでの人生で進んで読書などしたこともない自分が本を読み、志望大学を文学部だけに絞り、学習を重ねる。小論文の書き直しは必ず師に提出し、添削を受けた。今書いているBlogも、師の教えがなければキーボードの筆は止まっているに違いない。十代後半の貴重な時間を、真剣に論理的に物事を考える時間に費やすことができた。

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実は、理不尽なことなのではあるが、師の厳しい教えを、表現こそできないのだけれどモヤモヤした恨みに近い感情を抱いていたことも事実であった。周りの人間と同調してヘラヘラしていることだってできる時間もあっただろうし、そもそも塾や予備校の産業に携わることそのものが、受験止まりの勉強をしていただけではないか。さらに、そんな小な世界に腹の黒いニンゲンがウジャウジャといる。自分に課された師の教えに耐え切ることができず、師の教えを正面から受け止め、それを確実に消化していく厳しさを与えられたことに、師と出会ったことそのもの対してでさえ後悔の念のような、これもまた表現のしようがない黒くて力強い空気に耐え切ることができるのかという不安に駆られたこともあった。

私の英語講師としての経歴も、時間としては自分の人生の半分を費やしたところだ。私に対して、強い嫌悪感を抱いて去っていった生徒もいれば、私のことを信頼し、私のことを心から尊敬してくれる教え子もいる。私の授業を通して、自分も英語教師になりたいという夢を抱いてくれた貴重な者もいた。私は、その者に厳しい道を選択させたことになる。やがて、強い後悔の気持ちや、私に出会ってしまったことに恨みにも似た感情を抱くことにもなる。これは不可避。そして、これは、私のという存在で自己の人生に影響を受けてしまったのだから、正面から喜んで、その困難を受け容れ、乗り超えられる力を独力で学んでいかなければならないのだ。そのための道のヒントを、私は授業中に語っている。

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私もまだ未熟。未熟ではあるけれども、これからも英語教育を通して共に考え、生き方を考え直せる機会を増やしていけるような存在であろうとおもっている。

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