思考力

コーヒーの結晶

昨日購入したコーヒーメーカー。先代のコーヒーメーカーが壊れてから約一ヶ月もの間、自宅でコーヒーを作れなかった。無くなってその大切さを知るとも言え、とにかく不便だった。朝、起き抜けのコーヒーは、このブログでもよく綴っていた通り、1日における私の最高のひとときであったので、それを抜かれるということは、魂を抜かれるのと同じでもあった。これは決して大袈裟な話ではない。私の寝起きの淹れたての一杯のコーヒーは、私の心と身体を覚醒させるカンフル剤のような存在。決して欠かしてはならないものだった。

そんなに大事な新しい相棒となるコーヒーメーカーに妥協は許されることもなく、電器屋で念入りに調べ、物色していた結果、最後の選択肢に残ったものは、先代のコーヒーメーカーのバージョンアップしたものであった。やはり、それだけ気に入っていたのであろう。まるで、お互いに惹かれあったとしか言いようもなく、遠慮なくそれを購入した。毎日の幸せを与えてくれるものだから、多少高額とはいえ、財布に痛みを感じることもなかった。

痛みを知りて、その存在の大きさを知る。これは私がよく感じること。例えば、身体のどこかを負傷したときに初めて、その部位が、身体全体のどこを支えてくれていたのかを理解できる。これは、人間関係にも同じことが言え、誰か大切な人と別れることで、初めてその人の存在の大きさを知ることができる。やはり、普段気づかない部分で大きな活躍をしていたのだということを、痛みや喪失を通して、強く実感するのである。

やがて、その傷が癒えたときに、自分の成長というものを実感できることが多くなり、自分自身をも本当の意味で癒すことができるのである。前進していける体験と言うのは、そのような失くしたものを、再度探したり、さらに新しいものを探すと言うことから生まれてくるものだ。これは信じた方がいい。

今、自分自身に、強い焦燥感やジレンマを感じているのであれば、失ってしまった大切なものは何だったのかを具体的に考えてみるのもいいのかもしれない。やがて、それが見えたときに、そのパズルのピースを新しいものに置き換えられるようになれば、一枚の絵が完成し、それを雪の結晶のように、遠くから見つめて、美しさを感じることだってできるのかもしれない。そう、自分の乗り超えようとしている困難や挫折というものは、乗り超え、振り返ったときに初めて、いい思い出だったのだと感じられるようになるのだ。

そして、やはり成長や前進というものは、そのような苦しいプロセスの中に埋まっている宝物なのである。

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