思考力

養老の教え

 

日本人としては、なかなか情けないことなのかもしれないが、「養老孟司」という人を、先日初めて知った。書店に並ぶ本で、その名前を知りつつも、読み方がわからなかったという始末。今、愛機MacBook Proで変換をかけたが、1発で変換できた。やはり、常識的に知っていなければいけない固有名詞だったのだ。そして、彼のYouTubeチャンネルの講演会の様子を観て、そのユーモラスかつ有益な話に魅了された。特に、印象的だった話は、「方程式」の話であった。

義務教育の数学を理解していれば、「2x-4=6」ならば、「x=10」だということが分かる。ただ、ここに問題が生じてくる。エックスという文字と、10という数字が同じなのか。ここである。確かに、言われてみればそうだ。これは、日本人によくある傾向である、「全てを同じにする」という発想によく似ているということだった。私は、英語を教えているが、”My name is Masa.”という文で、第2文型で左右がイコール関係というのも、ある意味では問題があるのではなかろうか。アルファベットのSとMy nameを同じだと解釈できるのだろうか。養老孟司氏の講演会の様子を閲覧して、そんなことを深く考えていた。

これを自分なりに深く考察したときに、私の授業を毛嫌いしていた受験生の気持ちが分からなくもなくなった。私の授業を妨害していた生徒の考え方である、「文型」という概念を無視して、文頭から順繰りに和訳をしていくことで、文を理解するという方法は、必ずしも間違ってはいない。ただ、私は第二言語として英語を学ぶためには、文型という概念を理解していなければならないという考えがある。すると、彼の考えと私の考えが、がっぷり四つに対立していたがために生じていた因果関係があったのかもしれない。

なるほど、ある対立している事象を考えるときに、その対立項を抽象的に考えることで見えることもあるのだと感心してしまった。もしかすると、今までの「世界史」の歴史というのは、ただ一部の人たちの陰謀で書き換えられた「お伽話」であるのかもしれないし、その世界史に興味を持てない人が、その学問に興味を持てないのは、本能的に、その考えを受け入れられないからなのかもしれない。何らかの知識を受け入れるときに、実はそれそのものが「ゴミ」であると言わせないために、ゴミの発案者は、右一列をシッカリ整頓させるかの如く「右へならえ」の状態を作っておいた方がいい。

ずっと語り継がれている戦争の話であれ、一億火の玉の状態で、天皇の考えを一列にさせて身体ごと敵国へ突っ込ませた人たちの無念を考えれば、「右」が本当に正しいのかという疑問を常に持ち合わせていなければならない。そもそも、戦後の高度成長期から現在に至るまでで、価値観そのものが大きく変わったのも事実。今や貯金が悪とされて、投資が善とされている。所有が悪で、共有が善という考えも然りである。稼ぐ方法であれ、一企業に終身雇用されることがもはや廃れてきており、副業を本業へシフトさせることが、トレンドとなりつつある。

では、健康はどうだ。これまた大きく考え方が変わってきている。腸が第二の脳と言われるほど注目が集まってきており、一日一食は、もはや常識となってきている。戦後の空腹を満たさなければならないという固定概念が崩壊する。これは、ある意味、当然と言える。時代と周囲の環境が変化すれば、同じ状態などキープできるはずはない。日々アップデートされていく環境情報に、自分を合わせなければ取り残されてしまうのだ。

ただ、ここで困ったことが起きているのも事実。現代人が1日で受け取る情報は、江戸時代の人が受け取る一年から一生分の情報と同じだという研究結果も出ている。そんなに多くの情報を手に入れられるのは素晴らしいことではありつつ、人間の脳にとってはいいことばかりではなく、多くの弊害が起こり始めている。いわゆる「文明病」である。

そもそも、5〜600万年前に人類が誕生した時から、脳の情報処理能力というのは変わっていないのに、情報だけが過多になっている。あのミカン箱のようなWindows 95の処理速度で、最新のiMacで受け取る情報量を処理しなければならない。これでは、脳が大パニックを起こすのも無理はない。肥満。うつ。睡眠障害。糖尿病など。もはや、一昔前までは、少数しかなり得なかった病気が、どんどん現代人を蝕んで行っているではないか。そんな病気のほとんどに当てはまっている私は、ある意味では「正常」な反応を起こしていたのだと、強く納得している今日この頃であった。

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