思考力

潔くカメレオンになる

 

今考えても、ヒヤヒヤするというか、ゾッとする。深夜1時に目が醒めて、そのままコーヒーを飲んで、釣りに行こうと思い、釣り道具をクルマに突っ込んで目的地に行こうとした矢先、とんでもない睡魔に襲われた。これから、ゆったりと釣り糸を垂れる自信が一気に消えていく程の眠気が強くなる。確かに、アウトドアレジャーに行く時の朝は早いので、どんな人であれ、多少の眠気と戦うのは、必至といえば必至。しかし、今回ばかりは、「必死」になって眠気を堪えてハンドルを握るしかなかった。もはや、このままでは「必」ず「至」るであろう事故。結局というか、当然の如く、運転を諦め、コンビニの駐車場で、ナポリタンとチョコレートを睡眠薬がわりに腹へ流し込んで、血糖値爆上げの状態で眠りの谷へ落ちた。

再度目を覚ましつつも、これから釣り場へ行って、温かいお茶で仕切り直しできるとは到底思えないほどの眠気が残っている。もはや、「戦意喪失」の状態で家路に着き、自宅でスヤスヤと眠った。仮に、変な意地を張っていたら、とんでもない事故を起こしていただろう。仏教では、「因果応報」なんていう言葉もあるが、自分の眠気が原因で、人でも跳ねたのであれば、お互いの人生が狂ってしまう。今回の英断は、全くもって正しい。いや、これくらいの「潔い諦め」というのは、必ず良い結果となって返ってくる。まさに「因果応報」である。

「あきらめる」という言葉は、大抵の場合、ネガティブに聞こえる。ただ、かつて私の友人が仕事を辞めたことをメールで伝えてくれた時に、間髪を入れずに、「ギブアップすることも勇気です。今までお疲れさま」と送信したところ、その友人は、携帯の画面を見ながら、涙を流してくれていたと言う。だから、ときに「あきらめる」と言う行為を、積極的に肯定してあげることで、次のステップへ繋がっていることも多々あるのだ。その後、彼は結婚し、3人の子供を授かった。私の言葉が、多少なりとも、彼の背中を押したのであれば、私としては嬉しいことである。

入試問題を解いていて、難攻不落のハイレベルな問題があって、まさに「あきらめる」寸前で、その問題の解説授業を受けると、あっさりと答えが出てしまうことがある。これは、よくある「予備校講師マジック」とも言え、この魔術にハマると、一気にその講師の「信者」となっていく。すると、その講師の言うことや考え方以外は、一切受け付けなくなり、ただただ受講料という「お布施」をするだけとなっていく。このような状態で受験を終えた人は、大抵の場合、何かに傾倒することばかりに躍起になり、自分の意志で物事を判断できない方向へと生きることとなる。あくまでも、人生の主役は自分だということに、どこかで気づかなければならないのだ。

宗教であれ、今流行のオンラインサロンであれ、やはり「洗脳」という部分があることは事実であり、それを否定することは不可能であろう。仮に、洗脳という言葉がネガティブだと感じていても、その言葉そのものが、先ほどの「あきらめる」という言葉のように、積極的な意味合いであると捉えるのであれば、何かを心から信じていくことも、悪くはないはずだ。先導者の教えに、多少の強引さがあったとしても、そこを「独力」で解釈できる主体性さえ失っていなければ問題はないと、私は思っている。

お金も人脈も経験もたまらない人に共通する特徴2パターンある。1つ目は、自分のことが絶対であると考えている。2つ目は、誰かの教えることしか信じられない。この両極にある。例えば、誰かに嫌われたとして、その原因というものが、相手の考えであるという結論を下す時に、自分が絶対である、もしくは、自分の信じている何かが絶対であるという心情に基づいて考えだすと、そこには大きな対立が起こってしまうのだ。「自文化絶対主義」なんて言葉もあるが、物事を相対的に考えられる力がなければ、対立を最小限に抑えることが不可能となってしまうのである。

コロナの勢力が弱まった途端に、阿蘇山が噴火し、もはや自然突発的に起こる日本の混乱というは、絶対に避けられない。それなのであれば、お互いの違いを認め合う心を、常に大切にする。そのような考え方こそが一流の頭脳であると言える。そうではなく、自分の考えの妥当性のみに固執し、主張するだけであれば、災害大国日本の緊急事態の際の「重い足枷」にしかならない。自分の拠り所は、あくまでも自分にあるのだという「主体性」と、正しく他社の考えを受け容れられる「相対性」。そのような両者を行き来するフットワークの軽さこそが、自分の周りの環境を整えていくのである。

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