思考力

残りの衆

「切り捨てるていう考えを持てますか」。20代半ば、とある大手予備校の最終面接で問われたセリフ。大教室での授業の中で、本当に授業を理解している生徒というのは、2〜3割程度。つまり、それ以外の生徒を切り捨てるという意識で授業を進められるかどうかを問われた。心苦しくも、なんとなくそのような無慈悲な気持ちを持っていなければ、実際の合格実績を作ることはできないという私の考えもかわなったので、“Yes”と応えた。その最終面接には、最終筆記試験があり、その試験の難易度の高さから、不採用になったのは「学力」に他ならないことは、明白だったが、仮に、筆記試験で満点を獲っていたら、私の回答が受け入れられたのであろうか。

私が、受験生の頃、その予備校の授業は、各科目のトップ講師で固めていた。正直なところ、授業は程々なのだが、インターネットの口コミはなかったので、周囲の生の口コミに頼るしかない。すると、大物予備校講師の授業は、即日締め切りとなるので、その締め切りの早さで講師の人気が、確たるデータとして、客観的に判断することができた。人気がある講師に実力がないわけはない。ただ、盲信して、授業を受けるだけで学力が上がると思い込む。ただ、授業はイマイチだと感じる講師もいつつ、やはり、超人気講師の授業は、500人以上収容できる教室に、所狭しと生徒が埋まっていて、一つとして空席がないどころか、立ち見まで出てくる始末。こんな講師の授業が、分かりにくいはずはない。たったそれだけの理由で、その講師の授業を受け続けていた。

そして、そのような講師たちの授業で語る雑談は、そこらへんの芸人や落語家よりも面白く、難攻不落と思われる大学の問題を、あっさりと解いた後に話し始めるわけだから、生徒たちの興奮が冷めやらぬうちに、どんどん教室全体が熱を帯びてくる。今考えると、一種異様な雰囲気で、1000個の目ん玉が、一人の講師の一挙手一投足に釘付けになっており、その一人の人間が話すことが、あまり面白くなかったとしても、大きな歓声や笑い声、ときには啜り泣きをしているものまで出ていた。当時、某宗教団体が、電車の中で、決して取り返しがつかない大事件を起こしてしまい、そのようなことから、ある講師が語ることを無批判に信じているものを「〇〇の信者」と遠回しに揶揄されるケースが多々あった。

確かに、各講師も商売でやっているのも否めず、多かれ少なかれ、講師たちも「啓蒙の弁証法」のような話術で、他の講師との派閥を深め、自分がどれだけ正しいかを誇示するようになっていた。無意識にせよ、そのようにしなければ、自分を信じている生徒が離れてしまうことを恐れているし、そのようなケースを増やして、ますます「信者」との無言の結束が強まっていく。そのような異様なカオスに包まれていたのが、私が通っていた予備校の過去の実態だった。

それでは、肝心の「受験の学力」としての向上を図ることはできたのだろうか。向上したかしなかったかという二択であれば、間違いなく後者なのだ。莫大なお金と時間を費やしたのだが、偏差値という物差しにおいては、上がるどころか、みるみる下がっていった。大して人気のない講師しか出会えなかった科目であれば、その科目を選択することも止め、受験科目も減らしていった。例えば、国語であれば、古文漢文を捨てて、現代文のみの受験に切り替えるなど。とにかく有名な先生の感動的な授業を受けたくて仕方なかった。今考えると、予備校に行って授業を受けるというよりは、受験という出来事をテーマにした「映画」を観に行っていたようなもの。

私の場合は、そのようなパフォーマンス性のある授業を受けて、自分の英語の授業を、画一的な授業ではなく、斬新な授業展開に応用できたが、私のような受験生が、周りに結構いたので、そのような人は、かなりの時間とお金を浪費したと言わざるを得ない。あくまでも、予備校というのは、学力を上げる為に存在するのであって、ヘアサロンのように座っていれば、お望みどおりの結果が得られる訳ではない。あくまでも、自分が主体的に受験合格というゴールへいく場所だという認識を忘れてはならない。そもそも、宅浪で合格することだって十分できる訳で、わざわざ並んで授業を受けるということそのものが、実は必要なかったというのが、最近の流れで分かる。

自宅から一歩も外へ出ることなく、インターネットで授業を受けられるようになったり、様々な学参書そのものが、有名予備校講師が執筆した「柔らかい物腰」で書かれた、授業がイメージできるほど分かり易いバイブルになったりしている。そもそも、少子化の現代において、医学部は別としても、多くの大学が「定員割れ」を起こしているのが現状であり、大学が他大学に行くことを阻止するための「推薦合格」で学生の囲い込みをしている状態。そんなスカスカな倍率の大学そのものの存在も危うくなってきているのだから、各予備校が強気な態度を取れるはずもなく、生徒はVIP待遇のお客様として扱わなければ存続することはできない。

そのような移り変わりの中、かつて大教室を埋め尽くしていた超大物講師も、今や数十人の教室で、過去の500人以上の舞台を占領していた「武勇伝」を語っている。その全盛期に受験生だった私は、全てを人に依存することなく、あくまでも主体性を失わずに学習を継続することで、枠に囚われた「受験」などはシッカリとパスしてもらい、本物の学問へ向かう架け橋となる予備校をつくっている。今は、自分の考えをブログに書きつらねることで、確固たる自分の信念の痕跡を遺しておき、必ず来る自分の予備校の門戸を叩く者の足場を整えておこう。

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