思考力

意に反するセオリー

自分の苦しさを和らげるために、自分より辛い立場の人のことを思う。これが果たして良いことなのかどうかは、私には分からないのだが、今の自分には、そうすることによってでしか自分の辛さを紛らわすことはできない。例えば、戦争で亡くなってしまった人たち、震災で亡くなった人たち、疫病で亡くなってしまった人たち。様々な人たちが、意に反して死んでしまっている。それに比べて、今、生活に困窮しながらも、自分の力で対処できる問題に苦しんでいる自分は、まだまだ大丈夫なはずだ。

昨日、ネットサーフィンをしていたら、「トゥレット症・チック症」に苦しむ人たちの動画に辿り着いた。意に反して身体が動いてしまう。自分の身体の一部がビクンっと動き、意に反して言葉も出てしまう。これは、実に辛い症状だ。「それに比べたら」という表現そのものが、何となく違う気もするが、彼ら彼女らの日常生活は、とても困難だと思う。私も、双極性障害を抱えている身なので、過度な同情は、自分の障害を甘く見ていることになってしまいかねないので、その性質そのものが違うと解釈したほうがいい。

今の自分を苦しめているのは、経済的困窮であるのだから、成功者の考えや行動を真似することだけでも、窮地を乗り超える契機を掴めるはず。そんな時には、人生を楽しむために必要なこととは何だろうかと、いつも考えてしまう。そして、幸せのセオリーのようなことも考えることもある。人を蹴落としてでもトップになること。これだって、その人の目標であるのならば、綺麗事を抜きにして、立派な幸せの基準だ。もちろん、争い事のない平和な日常生活を過ごすことこそが幸せの基準だと考えるのならば、それも基準となる。

ただ、そのような尺度ではなく、幸せに至るまでの道のりというか、このご時世、一寸先は闇な中でも崩れない幸せへ繋がる理論とは何なのだろうか。ああすればこうなるという道のりは、確かに存在しないとはいえ、幸せに辿り着く「ある一定の法則」というものがあるとするならば、それは何だろうか。それは、ある人にとっては神がかったことであるのかも知れないし、ある人にとっては修行の道なのかも知れないし、ある人にとっては哲学的な行為へ走ることなのかも知れない。

こうなってくると、最近はアポリアー(解決できない難問)のことばかりに衝突するばかりで、締りのないブログの閉じ方になってしまっている。私のような凡人の考え方が浅いのはよくわかってはいるのだが、やはり幸せの定義を考えると、人間の本質的な何かに触れなければならないという、一種の義務のような壁にぶつかってしまう。

意に反して身体が動いてしまう症状。意に反して精神状態が波を打ってしまう症状。そこに共通しているのは、健常者からは考えられない苦しさがあるということ。これだけは、事実である。本当に幸せな生き方を求めるのであれば、このような問題に目を背けるということも、一種の幸せなのかも知れない。深すぎる苦悩を抜き取って、普通でいることだって、一種の苦しみを生むのかも知れないのだから。

-思考力