思考力

丸つけマシーン

強い疑問を抱えている。昨日は、副業として始めた、ストック方収入の柱として始めた「塾講師」のパートの2回目であった。担当したのは、二人。90分で両方を指導しなければならない。一人は、塾に求めている質が高い高校生。こちらは、体験授業で、会社としては取りこぼすことができない生徒だったはず。もう一人は、まるでザルのようにしか知識を吸収できない中三の高校受験生。入試まで残り1ヶ月を切っている。この二人を、同時に90分で教えなければならない。もし、情熱を注いで教えたのであれば、それぞれ間違いなく90分以上かかるはずであろう。

周りを見渡せば、私の甥っ子くらいの年齢の講師たちが教えている。彼ら彼女らが生まれる前から塾講師の仕事をしている私としては、疑問を抱かざるを得ない状況ばかりであった。私は、丸つけマシーンではない。いくら高校受験の問題など解答なしで教えられるとはいえ、いきなり持ってこられた初見の長文の中程の設問を解けるほどの実力はない。むしろ、それをできるだけの能力がある人は、とっととカリスマ予備校講師としてデビューしていなければおかしいのだ。

それでも、塾としては存続しているわけだから、需要の質と供給の質が一致しているわけで、やはり先に述べた機械のような「丸つけマシーン」にならなければならないようだ。ただ、労働型の収入では、それくらい手を抜くくらいがちょうど良いのかもしれない。かつて、『ブラックジャックによろしく』という漫画で、以下のような趣旨のセリフがやりとりされるシーンがあった。「医者と呼ばれる職業は、二段階に分かれていて、まず使命感に燃え、理想を叶えようとする段階と、次に行く段階として、ただノルマをこなすだけのような目の前にいる患者を淡々と治療し続ける段階に進むという段階に分かれている。」このようなやりとりだったはず。この考えでいけば、私の塾講師としての仕事というのは、二段階目に入ったのかもしれない。

生活のために、どんなに単調な作業でもやる。生活のために、生徒の人生のことなどは考えずにノルマをこなす。生活のために、生徒の目が死んでいたとしても、それを更生させようとは考えない。これを私の中で肯定しなければならない時がきたのだと考えれば、今までが、異常だっったのかもしれない。いや、きっとそうだろう。窓際係長とか、給料泥棒なんていう言葉もあるけれだ、そのような立場に立って自分の生活を守っていくべきなのかもしれない。やはりこれを肯定する時なのだ。

かつて、私を理不尽な理由で切った校舎の校長の最悪な台詞の中の一つ、「自分の身を守りたいのであれば」という表現。あれは、まさに全く正しい表現だったと受け入れるべきなのだ。校長に反抗して、自分の理想を貫いたところで、自分の生活が回らなくなって仕舞えば元も子もない。まさに、それでも悪あがきをするが如く、自分の信念を貫いた果てが、ウィルス性肺炎という結果で身体に出てしまったのだから。意地を張って、体を壊してしまったのであれば、自分の身を守れずに玉砕しただけとも言える。やはり、自分は丸つけマシーンになるべきなのだろう。それを、肯定しなければならない時が、とうとう来てしまったのだろう。

いわば、ずっと積み立ててきた株を手放す時がきたのだ。もはや、自分の投資金額が底をついてしまったのだ。どれだけのリターンがあるのかはわからないが、一問一答の文法問題くらいの解説を適当にしながら、90分を誤魔化して進めて行こうか。夢追いし叶った夢の正体は、まさにこの丸つけマシーンだったというわけだ。なんとも味気ない講師生活になったといえよう。今後の講師としての生き方を考え直していこう。

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