思考力

マッチャー席譲る

毎日、最低5本以上の「健康チャンネル」をYouTubeで視聴していると、イヤでも健康に関する知識が上がる。そして、今までの私の生活様式が、いかに悪質だったか。また、それらを改善していたとしたら、私の生産性は爆上がりしていただろうと強く後悔してしまうほどだ。睡眠に関しては、やはり自分の神経質な性格や、夜に不安な気持ちに襲われてしまう逃れようもない恐怖に苛まれるなど、一般の人には無いであろう深い哲学的な特殊な精神世界にいるから、一般的な入眠困難とは少々性質が違うのかもしれない。

ただ、そればかりではなく、やはり「眠り薬」を20年以上服用している中、自分の入眠に関する配慮が足りなかったことも大きな要因であった。例えば、浪人していた頃、薄いマットレスを万年床にして、シーツと枕カバーは半年に一度程度しか洗濯しなかった。就寝前と就寝後のタバコの美味さは格別であり、寝酒は常習犯。万年時差ボケの昼夜逆転の生活を繰り返していた。こんな状態の生活で、勉強の効率性など上がるわけもない。この部分だけでも改善していれば、確実に人生そのものが好転していたということは言うまでもない。

継続的に、このブログを読んでくれている希少性の高い方々ならご理解いただけると思うが、最近の「入眠困難」は、異常である。「アレ」を飲んでも訪れる気配のない眠気。「5分10分聞いて深く寝落ちできるBGM」というタイトルは、やはりただの誇大広告だと実感しつつ、最終手段のコンビニ弁当過食という最悪の夜の負の睡眠連鎖を繰り返していた。昨晩は、思い切って逆パターンをしてみようと作戦を練った。カラダに悪いどころか、今や「猛毒」としか認知できないコンビニ弁当とお菓子をドカ食い。「血糖値スパイク」なる血糖値を爆上げさせ、急下降する「それ」が誘発する眠気を利用して横になり、過去のトラウマを癒すために、和尚さんの説法をBGMにして眠りに就いた。目覚めるとカーテンの下からは、綺麗な日差しが差し込み、身体を起こしてiPadを見れば、朝7時。作戦は成功したのだ。

「睡眠」という私にとって最難関の障壁を、見事にクリアできたのだが、これを続けていたら養豚場の農家の人もびっくりの「過食豚」に変貌してしまう。だから、今日は波乗りにでも行って、メラトニン垂れ流しにした後、大型リゾートスパで「サウナ瞑想」でもしてこようかと企んでいる。自分の体内にある悪い種を取り除くために、1日ぐらいカラダに悪い毒を流し込んだだけだし、スッキリとした春の朝にブログをかけているわけだから問題なかろう。「不眠症」という私の人生の足枷となっている許せない悪癖を踏み台にして、楽しくレジャーに行ったとしても「バチ」は当たらないはず。

昨晩の「大愚和尚一問一答」では、許せない相手への対処法に対するアドバイスだった。人は、なかなか愚かな生き物でもあり、記憶しなければならない「英単語」や「数学の公式」よりも、過去のトラウマになってしまうような出来事は、深く強く、また容易に記憶してしまう。そして、過去に受けた苦しい記憶というものは、常に頭から離れることなく、自分の心を踏みにじり、そのようなことに囚われている自分自身をも嫌悪してしまうような負のループが完成してしまう。なんとも皮肉なものだ。

また、人間の脳の仕組みなのであろう、自分の興味が湧かない分野に対して行う作業に、いったん嫌悪感を示してしまうと、その範疇でのパフォーマンス性は一気に下がり、そから先のタスクそのものに嫌悪感を抱くようになってしまう。一世風靡した映画『鬼滅の刃』であるが、私の世界観とは大きくズレていたようだ。平日の映画館で鑑賞したのだが、映画が終わり、隣には泣いている人がいたのだが、私の心の琴線が揺れることはなく、どこに感動するのかが分からなかった。また、『君の名は。』に深く共感できた私は、新海誠の次の作品である『天気の子』に過剰な期待をしていたようで、その期待は見事に外れてしまった。ただ、つい最近、同監督作『言の葉の庭』を鑑賞したら、先述の2つの作品の「動」の世界観とは正反対の描写が「静」の世界で物語が繰り広げられ、ラスト5分間は涙があふれていた。

この『言の葉の庭』の良さを理解している人が多くないのか、はたまた『君の名は。』で空前の大ブームを起こす前の新海作品だったためか、絶賛される作品ではないようだ。45分という短い時間の作品なので、試しに、ブラック企業で打ちのめされた元同僚へ紹介して感想を訊いたのだが、あまり反応は良くなかった。やはり人の好みや価値観には、多少なりとも相違があるものだ。ただ、仮に自分と全く同じ価値観の者同士がくっついたとしたら、刹那的な亀裂が生じた時に、その関係が瞬時に「許せない人」同士の関係となる危険性だってある。

意識は明瞭とはいえ、もはや寝たきりとなってしまった私の母。コロナ禍で面会が禁じられ、「Zoom」での5分間の面会が2〜3週間に一回ある程度。そんな母が、シルバーカートを押さなければならなくなった状態になる前に、一緒に電車に乗った時のこと。誰も、席を譲ってくれることはなく、母は私の二の腕にしがみついて、私が何とか支えながら電車で立っていた。私が誰かに席を譲ってもらうように声をかけるべきだったという自責の念が、今でも大きく残っている。ただ、こう考えてみると、そんな光景を気づくこともさせず、画面一点に意識を集中させる「スマートホン」の魅力というのは、異常なほど強力なものだという認識を得た。

私が、痛風であっても松葉杖を付いて出社した時も、優先席の目の前で立っていても席を譲ってくれる人はいなかった。正確には、数駅通過した後に、かなり遠くの席に座っていた私より歳が上のような方に席を譲っていただいた。松葉杖というのは、優先席付近を示す掲示に堂々とマークがあるのだから、席を譲るべきだということなど、日本語を理解していない外国人だって、漢字を読めない小学生だって理解できる。倫理的に考えても、赤信号は世界共通で「止まれ」だという意味を示すことと同じ「常識」ではないだろうか。

席を譲るという行為が偽善的で、わざわざ席を譲れば周囲からの同調を得るだけだと感じる人もいるのかもしれない。例えば、渋谷のセンター街の人混みの中で立ち止まり、一人でずっと空を見上げながら両手を空に向けていたら、周囲の人たちは「危険人物」だと認識するだろう。ただ、ある程度距離の離れたところにいる人は、少しだけ目玉を上空に上げることもありそうだ。仮に、同じように両手を天に上げる人が現れたとしたら、興味本位で両手を上げる人も出てくるかもしれない。やがて、そのような人が増えれば、ドラゴンボールの「元気玉」のような状態に変化する。これは「同調圧力」とも考えられる。

もし、一人でも高齢の母や、松葉杖を付いた私に席を譲る人がいれば、譲った席に他の人が座ることはまずないだろうし、今まで知らん振りをしていた周囲の人たちだって、多少はバツの悪い感情も湧いてくるだろう。いかにも、空いた席の両端の人は、とりあえず道徳的な意識から、お尻を少し上げ、そのスペースを広げる。そんな光景が容易に想像できる。そんなお尻をキュッキュと上げた人が、次に同様のシチュエーションになった時に、果てして道徳的に譲らねばならないかどうかを、少しは考えるきっかけにはなるだろう。

抗生物質は、実は人間にとって、強烈な「毒」だった。もちろん、インフルエンザなどの一時的な発症を押さえつけ、その細菌を死滅させるのには大いに役立ち、仮に抗生物質が普及していなければ、多くの人間の命が救われることはなかったと言われている。ただ、やはり問題となってくるのが、その処方される抗生物質の「量」と「頻度」だ。最近の研究では、「腸」の健康に注目が集まっているが、抗生物質の過剰摂取で、人間の9割が最近で構成されていると言われる人間の「腸内細菌」は破壊されてしまうというのだ。

腸内環境を整える代表格として先ず思い浮かぶ「ヨーグルト」。これは、耳にしたことはあろう「善玉菌」「ビフィズス菌」などを含蓄しているので、腸に良いとされているが、腸内細菌の絶対数と比較すると、圧倒的に数が少ないので、大きな効果がないというような研究結果も出ている。摂取しないよりはいいのかもしれないが、乳製品ということもあるので、その「乳」の質や、その質を維持するための科学調味料や糖分などを考えると、積極的な摂取には疑問が残る。かなりの「健康オタク」になっているので、データとデータの矛盾点などに気付くようになってしまった。ただ、丸々と太ったドクターに「痩せなさい」と言われても文句を言いたくなるのと同様、コンビニ弁当とスナックを貪り食って「眠り薬」の代用品としている私の主張に説得力は少ない。

知識と知識が衝突した時。自分の中で矛盾点を感じながらも行動しなければならない時。一つの戦略として「頑張らない」という考え方だってある。専門家でもないし、理系関係の知識には疎いので、詳しいことは言及しきれないが、エクセル関数に苦手意識を持ったとしても、プログラミングのスキルを上げることは可能なのかもしれない。古文と漢文ができなくても、英語の学習ができるというのは、英語で生計を立てている私からすれば、正論だと断言する。また、古期英語の歴史を知らなくとも、十分に日常英会話を使いこなすことも可能だ。

苦手な分野だとわかれば、その部分を無理に克服するというのは、義務教育までで終わりにし、興味が湧かない分野であるとわかったら、そこにはとっとと見切りをつけ、自分の得意分野を追求して行った方が、人生の時間節約になることは間違いない。時間は有限だ。広い観点で考えてみれば、決して人間は一人で生きていくことはできない。日常で当たり前のように使っている「電気」「ガス」「水道」などのインフラであっても、やはり誰かの力によって生産された資源を利用しているのであり、私の発信している情報であっても、このパソコンのデータが、インターネットを介し、サーバーを経由して、どこかのデバイスにつながって、閲覧できるようになている。

私が、MacBookの本体を1から作成しようとしたら、来世の来世の来世どころか、地球が太陽に吸収されて亡くなってしまう頃にさえ、完成しないだろう。太陽が西から昇る方が確率は高く、私が鳥になったらあなたのところへ飛んでいけるような、受験生の「仮定法」例文の方が、遥かに確率が高い。今の例は、冗談と皮肉を込めた極端な例ではあるが、人生を好転させるチャンスを見抜くということは、どこまでが自分が取り組みべき課題であるのかを識別することでもあり、戦略的かつ積極的に、自分の増えてとする分野に対しての努力を止める術を学ぶことも必要だ。

許せない人がいるのであれば、進んでその人から逃げること。今思い返せば、許せない人というのは、何かしらの形で自分の大切にしている物や考え方をテイクしていった「危険人物」。同調したところで「元気玉」など作れるどころか、「鬱の塊」しか産み出さない。『GIVE&TAKE「与える人」こそ成功する時代』という本で解説されていたが、結局、「正義は勝つ」ということで、「GIVER」が得をするという結論だった。しかしながら、GIVERには2種類いて、「お人好しのGIVER」は、最悪であるということも主張されている。自己犠牲を伴う「GIVE」をしたところで、相手にとってはありがた迷惑でもあるし、「TAKER」にとっては、格好の「カモネギ」だ。

『リベラルアーツ大学 両学長』が、動画の最後にいつも言っているキメ台詞。「今日が人生で一番若い日」。10を0になるまで“GIVE”し続けるテイカーに陥って、今までのように「TAKER」に自分の心の波動を揺らされるより、これからの人生を「他者志向型GIVER」となって、豊かな人生を歩んでいこうと思う。

-思考力